明治33年 | 明治42年 | 大正9年 | 昭和5年 | ||||
馬 | 3,931頭 | 4,055頭 | 3,395頭 | 2,511頭 | |||
印旛,東葛に次ぐ | 農家3戸に1頭の割 | 飼育農家 | 2,474戸 | ||||
対全県比 | 20% | 対比 | 10% | 農役と運搬用2対1 | 対比 | 5% | |
牛 | 88頭 | 309頭 | 356頭 | 1,928頭 | |||
(うち乳用 51頭) | (うち乳用 251頭) | (うち乳用 135頭) | |||||
対全県比 | 5% | 農家30戸に対し1頭の割 | 飼育農家 | 1,417戸 | |||
搾乳業者 | 6 | 搾乳業者 | 12 | 対比 | 5% | ||
豚 | 339頭 | 2,286頭 | 1,928頭 | 2,215頭 | |||
東葛,海上君津,香取に次ぐ | 飼育農家 | 1,265戸 | |||||
対全県比 | 10% | 対比 | 14% | 対比 | 5% | ||
鶏 | 約13万5,000羽 | 約10.7万羽 | 約14.5万羽 | 約15.6万羽 | |||
2位の東葛は12万5,000羽 | 全県の首位 | (その他の鳥4,500羽) | 農家飼育 | 10,987戸 | |||
1戸当り | 11.2羽 | 殆んど全農家 | |||||
対全県比 | 15% | 対比 | 6.3% |
昭和15年 | 牛 | 乳牛 | 豚 | 鶏 |
1頭 | 2,107 | 943 | 478 | |
2頭 | 100 | 14 | 146 | |
3~4頭 | 25 | 0 | 56 | 1戸当たり14.8羽 |
5頭以上 | 20 | 0 | 70 | |
計 | 2,252 | 957 | 750 | 9,776 |
戸 | 戸 | 戸 | 戸 | |
農家100戸に対する比 | 25 | 10 | 8 |
乳牛飼育について、園生の吉田総石の聞きとり記録によると、初代都賀村長を務めた石橋善三郎と庸(つね)治親子が先覚者であった。文明開化とともに、病人、虚弱者によくきくということで、需要があったため、明治三十三年、安房郡嶺岡牧場から、ホルスタイン系雑種の仔牛八頭を買い、石橋氏所有の、長生郡長柄村山之郷に牧場を開いて飼育した。搾乳できる状態になった三十五年七月、検見川向原の畑に石橋牧場を設けた。牛乳は大釜で煮立てた上、二合瓶につめて販売したという。売値は一本三銭。資産家の老人、病人のいる家庭、大学病院などへ大八車で運搬、一日がかりであった。善三郎の死亡で検見川から園生の実家に移り、その後生糸貿易の不振もあって、明治四十年に廃牧した。なお石橋家は、代々の醤油醸造を業としたが、明治の世を迎えてから製茶、製糸(当時は糸出しといった)を経営、県下有数の事業家であった。『千葉郡誌』によると、これより以前、東京の人前田留吉なるもの、牝牛一頭をつれて千葉町において飼育したのが、明治八年であったとしている。時勢の流れにつれ、次第に増加した。
昭和九年五月の『愛土』誌には、犢橋村小深組合長蓜島璋之助が、第一回畜牛共進会のレポートを載せている。大正二年夷隅郡下より三八頭を導入、組合員に飼育させた。成績もよく、希望者が多いので大正六年から三度にわたり、ホルスタイン種百余頭を、岩手県から入れた。
共進会には五六頭が出品されたが、村一円の参観人だけで、県官の審査員も残念であったらしい。その一節に、乳量一日当たり一斗位の能力の牛は、使役して差仕えない。深耕により増収というプラスがあるとの発表があった。畜耕のためには、大正十年ころから、価が安く、飼い易く、使い易いという三徳具備の牛として、鮮牛の移入が盛んとなった。百円で購入し、三カ年間肥料をとり、耕作に使いながら、二五〇円の現金が戻りますというのが、広告の宣伝文に見えている。馬の低落傾向に比べて、牛の飼育戸数、頭数の増加していくようすが、五―六七表によって分る。
国家事業としての畜産奨励は、もと広島県下に牧場があり、実験研究、品種改良、種付けなどが行われていたが、畜産試験場が千葉町に大正五年誘致され今日までに至っている。
豚は天保ころから、九十九里浜方面で飼育されていた。乾燥した砂地の畑を落着かせる肥料源として飼われていた。甘しょ産地で、その廃棄するような残渣(さ)で容易に飼えることも理由であろう。明治十七年には森田龍之助が塩豚、ハムの工場を千葉町に建設、海軍ならびに横須賀の貿易商を経由、ウラジオストックまで輸出した。その後原料不足で消滅した。千葉郡農会では、養豚協会の設立を契機に、明治三十七年イギリスからバークシャーを導入した。市街地と兵営隣接地域、でん粉かす、いもづるなどの飼料によって、容易に飼育できるとした。協会の発起人は検見川、幕張、犢橋付近の有志で、明治四年から養豚に手を下した藤代賢蔵は「豚博士」と呼ばれていた。
鶏も古くから飼われていたが、在来種の放し飼いが多かった。優良洋種は明治十年代に導入され、一時は利殖投資の対象にもされた。明治三十年郡農会設立以後は、品評会を催し、協会設立などに努め、種類の改良、卵共販体制を奨励するなどして、堅実な農家副業に役だてようとしている。ほとんどの農家で飼われているが、特に盛んなのは、検見川、幕張、白井、誉田、都賀の各町村。白色レグホン、黒色ミノルカ、横斑プリモースロックが普及した。
以上を概観すると、農村恐慌の後をうけ、農民が主体的に更生にとりくみ、初めは副業であったものから次第に本業化して水田中心の主穀主義から、多彩な発展をみる多角経営に移行していったことがわかる。この傾向は戦時中の統制によって分断されるが、副業から発展した多角農業と集約的園芸農業は、戦後急速に発達する農業革新の先駆をなすものであった。