生活改善

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 農村の貧乏追放、婦人を角の無い牛として過剰労働させられていることからの解放、複合家族内における親子関係の解決など、生活改善に関係する事項例を紹介したい。
 農村に農繁期托児所を設けることは、大正十五年度、県社会課から各町村に奨励した。愛国婦人会、日赤支部から補助金を交付している。初年度は君津郡下で一カ所、昭和二年には県下で二七カ所設置された。更科村富田では、村長猪野儀次郎、元県議仲田徹などの有力者が、石出小学校長と協議し、危ぶみながらも第一分教場を利用し開設したところ、六六名の子供が集まり、幼稚園のようだったと伝える。日の長い午後が大へんで、むき豆やいもを蒸して、お八つにしたと報じている。
 野呂にある妙興寺住職の娘、香取静子(当時二〇歳)は個人経営で開設した。県農会伊藤技師の、処女会における講演に発奮したという。学令前の子供二〇名余を、朝六時から夕六時まで預り、設備はないが家族的な潤いがあった。託児からお母さんと呼ばれ、気まりの悪い思いがしたと述懐を載せている。
 犢橋村広尾区実行組合では、共同炊事を行った。組合に属し炊事主任を務めた長岡登代子のレポートは、昭和十五年当時の農村事情の一端をうかがえて興味深い。共同精神が欠けている点で村内でも有名だったこの部落は、町に近く交通便利なため、一家の主人に勤めるもの多く、農業は老人や、雇い人によってなされていた。農繁期には男手の雇入れ競争で、待遇やご馳走の点で、負担が大きかった。労働力不足の対策にもなるので共同炊事に踏切った。三三戸の留守番、子供も含めて七五人分を三食とも配給した。米と味噌は持寄り、燃料は組合長の寄付、三食分五二銭で大へん喜ばれたという。栄養についての理解が行届いた点で、よかった模様である。
 千葉県農村青年研修館『館史』により、前述の農会立家政女学校寄宿舎における献立をみると、昭和十三年当時の食生活の状況が分る。できる限り自給野菜を利用し、農家生活に応用できる、生徒自ら工夫し、実習した教材でもあった。油揚げ、人参、切こぶの混ぜ飯、豆腐、れん根、桜えび、青菜を炒め煮した八栄(やさか)丼、大豆の鉄火みそ、豚肉と葱を煮てから卯の花とともに炒めたもの、かぼちゃの小倉煮などに人気があった。