戦時体制下の農業統制

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 昭和十三年、農林省から、農業の全面的生産計画を樹立、実行に移そうとする意向が発表された。その趣旨は、米・麦など主要食料の確保、茶、生糸、除虫菊など輸出関係の推進、粟など雑穀は現状維持、園芸作物は時により制限し、または禁止するというものであった。野菜などの園芸農業の発達した千葉県にとって、これは容易ならざることであり、千葉高等園芸学校長松井謙吉は「近年の体位低下は、肉と穀物の摂り過ぎであり、野菜・果実などアルカリ性のものを多量にとる必要がある」と発言して注目された。
 千城村坂尾農家組合長は、昭和十五年、年頭の決意を次のように述べている。組合を上手に経営するには、組合員農家の収入を多く、支出を少なくすることだ。一人一反歩ずつ、三町余の開墾をとりあげたい。農機具は在来のもので間に合わせる。国の食料対策から考えて、西瓜などは減反したいと思う。生産資材など間に合わぬことが予想されるので、組合の力で配給の方法をとりたい。できるだけ消費節約、味噌、醤油の自家製造、綿や麻の自家用栽培、衣服や農具の利用更生など、大いに奨励したいと結んだ。
 中央からの指令に基づき、この年には県規則が制定公布され、次第に自由な経済活動が制限されてきた。主食穀物はいうまでもなく、生産資材としてワラも出荷の割当、県外移動の許可制が布かれた。行政官庁から命令により、農会、地区実行組合を通じて、すべての農家が統制されることとなった。季節的な農業労働力の過不足について、労力不足で田植時期を失し、収量を減じては銃後の責任を全うすることができないという発想である。県及び農会が策を立てた。地主家族など直接農事にたずさわらない者も動員された。五人以上で届出、令書を携行、標識や腕章をつけて作業する。郡外移動班だけでも三百八十余のグループが結成され、県内一六万農家、不足労力六万人分を補った。
 昭和十五年八月、戦時食料報国運動調整方策が県から通達される。ぜひこれだけは実施して欲しいという要請で、次の四項からなっている。二割以上の混食、混食には麦のほか、なるべく豆類、芋、野菜を用いる。三日に一度は代用食または栄養雑炊を実施、消費地町村では一日一人米二合、麦五勺を節米目標とした。
 蔬菜統制の適用範囲は、さつまいも、ばれいしょ、玉ねぎ、大根、白菜、キャベツ、みかん、りんごが挙げられた。千葉県には大根、さつまいも、白菜、白ねぎの四種が配給割当てを受けた。県農会から郡農会にこれまでの実績を参考にして、出荷先、数量を月別に指示される。割当て分の確保達成ができない場合、県外移出を押さえ、罰則の適用、過怠金の徴集があったという。割当の一例として、昭和十五年十月分さつまいもを、東京へ一〇万貫、北海道二万貫、京都二万貫の指示。正味一二貫入り麻袋で荷造り、赤インクで径約三センチメートルの統荷札をつけたという。
 昭和十七年、農業生産の統制が、いよいよ強化され、農業生産計画は末端から系統農会を経由、総合されて地方長官に届出ることになった。計画をいかに実現するかの具体事例として、昭和十七年四月十日、指示第一号(県農会長名)には次の事項が記載されている。
 稲の不安全品種制限、苗代播種量や面積の制限(坪当たり浸しもみ、三合以内で、本田反当たり一三坪)、役畜使用期間五月から七月末まで、公定賃貸料一日に付き五円以内とした。
 同年四月十八日指示第二号に、六人毎の労働移動班を、千葉郡下に二〇班割当て、五月二十日から六月三十日まで四二日間の出動を命じてきている。応援先は山武、長生、香取郡下であった。
 近郊農村地帯では、時代の動向を明敏に察知し、国策の線にはずれることなく、従来の営農を転換しなければならなかった。増産第一線に立つ「時の人」として、幕張町飯野良治が、昭和十七年一月の『愛土』誌に紹介されている。彼は東京府立園芸学校の出身、耕地二町の他果樹園三反を営む。区長代理など公職八つを受けている。「朝から晩まで、馬のように汗をかいてもダメ」「統計と算術が農家経営の基礎」とし、輪作経営の妙により、肥料不足を克服したとある。
 昭和十七年度より実行された食料増産方策の中から、社会世相を知るに役だつ事がらを拾って記そう。
 耕種に関して、もち米は飯米不足農家もあることから、作付を控える。蓮根づくり、落花生栽培は実績をみて制限する方向。
 農地に関して休閑地を残さない。市街地にある遊休地も、所有者の報国精神に訴えて、無償提供を求め、町内会、青年団、学校などで管理耕作する。陰樹は伐採する。
 労働力確保のため行商制限(幕張、検見川方面は、農村恐慌を契機として、電車利用の東京方面行商が多かった。)、中学校生徒の動員(農業に不馴れなものの、勤労奉仕受入れは、作業に留意とある)、五日~八日の手間賃は、休憩二時間を含め一一時間の場合、最高額男三円、女二・四円と定め、市川・船橋では二〇銭増し。一時間を欠くごとに一割減とした。東京から女子青年団員が六名一班となり、共同炊事援農にやってきた。
 戦時下の統制は、上下ならびに横の連絡が徹底し、行政指導、警察権力などによる秩序も整然と維持され、乏しいながら生産物資の分配もあり、生産は強化されていた。
 敗戦による人心の動揺、物資の極端な不足、災害による減収などが重なり、昭和二十~二十四年はかなり混乱した。食料不足による統制供出が強化され、昭和二十四年三月には、占領軍軍政部から完納命令、強権発動予告もあり、期限直前まで、全国最下位の汚名を受けたこともある。