貝類の養殖は大正期から本格的に行われた。夏の浮魚漁が減少する冬の三カ月において貝類採取は漁業者の重要な現金収入源となってきたが、大正期には貝類も乱獲で採取が十日もつづかなくなっていた。大正八年(一九一九)に浮魚漁業者一六一名を組合員として「千葉市貝捲漁業者組合」を結成して貝類養殖をはじめた。これから貝類養殖が千葉市の地元海面に普及して、貝類の採取が一冬をつづけることができるようになった。稚貝を大森・浦安方面から移入して、干潟に蒔きつけた。養殖地は沖合にはまぐり・ばかがいとし、汀線近くの干潟にあさり・しおふきとした。この貝類区画漁場は一坪につき年一厘五毛の漁業料を組合員から徴収して使用させた。貝類養殖組合ははまぐりの貝捲漁業組合のほかに寒川・五田保・登戸・黒砂のあさり養殖の四組合が結成された。これらの養殖組合の採集日数は一冬のうち三五日から四〇日もできるようになった。稚貝の蒔付量は年に一万――二万樽、二千円から八千円に達した。千葉市貝捲漁業組合は、貝類の採集について乱獲にならないように統制し、さらに共同販売と売上金の分配まで行った。組合員は出漁ごとに一日一人につき一円五〇銭を分配された。昭和期には貝類の年間販売量は三万――四万樽であり、その金額は二万――四万円になっている。このうち約八〇パーセントは組合員への分配金となり、残りは稚貝蒔付資金として積立てられた。
のり養殖は蘇我・生実・浜野の地先海面に行われてきた。しかしほしのりとして製品の光沢が悪いので品質不良であった。そのためおもに種ひびの供給地として養殖されていた。ほしのりの生産は大正初期は一六〇貫・二千円であったが、大正八年から急増をはじめ、七百貫・一万七千円台となり、主要水産物の一つとなってきた。昭和七年には千葉市の水産高約二〇万円の中で三万六千円をしめ、種類別にみれば、ほしのりほど高額の生産額をあげるものはなかった。また漁業者は昭和八年末に専業が二〇三戸、兼業四百戸、計六〇三戸のうち、のり養殖者は四八四戸に達した。これに対して貝類養殖者は一、五一七名となっている。これは昭和八年の漁業雇用者で本業としている者二八三名、副業としている者三七五名、計六五八名を含んでいる。のり養殖者は漁業者の専・兼業者が主としていたが、貝類養殖者は、漁業者とこれに雇用される漁村労働者も参加していたからである。
これらの魚類・貝類は千葉市魚市場(寒川)に出荷されて市内と市原郡・印旛郡に供給された。この魚市場は千葉市鮮魚問屋組合の経営で加入問屋は一三であった。年間の取引額は約七〇万円をこえた。この魚場に参加する鮮魚小売商・棒手振は約五百名もあり、鮮魚合同組合を組織した。これらの小売商・棒手振は毎朝このせり市場に集って取引をした。また水産加工業者は本業四五人、兼業七六人、これらの雇用者二〇三人(昭和八年)となっている。これらの加工業者は原料とする沿岸魚類の水揚減少から生産が苦しくなってきた。千葉名産の粟潰のこはだが不足してまいわしが原料となってきた。佃煮の原料のはぜが減少してきたので、木更津方面に原料の買出しにでかけるようになった。
漁獲物 | |
円 | |
まいわし | 1,625 |
せぐろいわし | 1,325 |
かます | 120 |
かれい | 1,221 |
あじ | 2,000 |
ぼら | 910 |
いな | 609 |
きす | 729 |
このしろ | 1,032 |
こち | 180 |
はぜ | 1,925 |
いか | 2,836 |
えび | 6,765 |
その他 | 431 |
小計 | 21,708 |
水産養殖物 | |
あまのり | 19,536 |
あさり | 31,935 |
はまぐり | 20,062 |
きんぎょ | 328 |
小計 | 71,771 |
水産製造物 | |
ほしがい | 4,624 |
あわづけ | 11,216 |
かまぼこ | 18,923 |
つくだに | 26,588 |
ほしのり | 36,774 |
貝類 | 10,410 |
小計 | 108,535 |
合計 | 202,014 |
(『千葉市水産資料』)