有動力 | 無動力 | 計 | 内容 | |
繊維織物 | 62 | 6 | 68 | 織物34 |
金属機械 | 23 | 6 | 29 | 機械製造9,金属加工9 |
化学 | 19 | 8 | 27 | 製紙6 |
食品 | 217 | 49 | 266 | 酒類95.醤油71,澱粉58 |
印刷 | 13 | 1 | 14 | |
その他 | 33 | 157 | 190 | |
ガス | 2 | 0 | 2 | |
総計 | 369 | 227 | 596 |
(『千葉県統計書』)
工場内容をみると、相変らず食品部門が多く全体の約四五パーセントを占めた。一方、機械・金属部門は貧弱で各々五パーセント弱であった。
当市域では工場総数五四で(五―七〇表)大正十二年にくらべ一七工場の減少を示した。減少の主なものは、澱粉工場一二、製材四、繭乾燥二であった。機械、化学部門はさしたる変化はみられず、菓子、建具等で多少の増加を示した。主要工産物も大正時代とほとんど変らなかった。澱粉業は、海上郡の発展が著しく、県下での地位は低下したが、当地区での中心であった。このころには製飴業が発展し、澱粉の輸入がはかられ、そのために澱粉製造業者は体質改善に努力するようになり、製造所の減少がみられた。
大正12年 | 昭和2年 | 内容 | |||
有動力 | 無動力 | 計 | |||
繊維織物 | 5 | 5 | 1 | 6 | 織物4 |
機械器具 | 3 | 2 | 1 | 3 | 機械2,器具1 |
化学 | 6 | 5 | 0 | 5 | 製紙4,ゴム1 |
食品 | 32 | 19 | 2 | 21 | 澱粉14,菓子2 |
印刷 | 7 | 7 | 0 | 7 | |
その他 | 17 | 6 | 5 | 11 | 繭乾燥5 |
ガス | 1 | 1 | 0 | 1 | |
総計 | 71 | 45 | 9 | 54 |
(『千葉県統計書』)
焼蛤は、稲毛地区の原田三省が、「蛤しぐれ」「千鳥焼」と名づけて販売していたものを、大正十二年末から、川口某が製法を改め「焼蛤」としたのがその名のおこりとされ、浦安から富津までのはまぐりを原料として製造の基礎を作った。
貝灰は需要増大に伴って生産が拡大したが、中心は東葛地区に移動した。当地区での生産の中心は幕張地区海岸で、原料の貝は主に、「から堀」によって供給された。貝の焼方も、同地区の志村某により工夫改良され、高能率となった。燃料には東京ガスなどよりのガスコークスが使用されたが、それは東京・横浜への製品輸送の帰り荷として運ばれた。以上のほか、製紙・印刷・製油・洋服仕立・菓子・製氷があった。
金融恐慌後、緊縮財政の下に産業の合理化がおしすすめられ、これを基に、昭和五年十一月には、金解禁が実施された。これが前年の四年十月に発生した世界恐慌と合致することとなり、日本の貿易は極度に不振となり、国内の物価は一層の下落をし、解散、減資、操業短縮をした会社が続出し、失業者が大量に発生した。
このようななかでの千葉県の工場は総数六〇九で(五―七一表)、二年に比し一二工場の増加で、総体としてはさしたる変化はみられなかった。内容をみると、三年間に発展したのは、金属機械部門の一三と、化学窯業の三であり、一方食品部門では六工場の減少を示した。千葉県においてはこの時期にようやく金属機械部門が緒(しょ)についたといえる。
有動力 | 無動力 | 計 | |
繊維織物 | 62 | 4 | 66 |
金属加工 | 9 | 0 | 9 |
機械器具 | 29 | 4 | 33 |
窯業 | 5 | 6 | 11 |
化学 | 18 | 1 | 19 |
印刷 | 13 | 2 | 15 |
製材製品 | 26 | 131 | 157 |
食品 | 223 | 37 | 260 |
ガス | 3 | 0 | 3 |
その他 | 9 | 27 | 36 |
総計 | 397 | 212 | 609 |
(『千葉県統計書』)
当市域では、工場総数五六と変化はなく、内容的には、機械工場二、製氷・セメント製品各々一工場が成立した反面、澱粉工場が減少している。この五年には従業員三二人、年間麦粉生産約一三〇万円余の大企業の一つ、新町に大正十二年創業の松本製粉(株)が大手製粉の日東製粉(株)の経営する所となり、社名も日東製粉千葉工場となった。また、同じ頃の創業である新田町の両総綿業(株)も経営者が変り、社名も稲好織物千葉工場となり、ガーゼ生産を主にするようになった。
六年九月には満州事変がぼっ発、金輸出再禁止、七年の積極財政などにより同年後半からわが国経済は景気を回復した。この間わが国の工業生産は増大し、特に機械・金属工業の躍進はめざましかった。千葉県では機械金属工業の発展はほんのわずかしかみられず全国的に重化学工業の発展する中で、むしろとり残された形となってしまったのである。
八年の当市域の工場総数は五五で、数の上でも、内容的にも五年と変わりがなかった。この八年には当時の千葉市の統計が発表されたが、その中から工業関係を拾うと次のようであった。
工場総数三五で、その第一位は印刷工場の七であった。印刷所の工場は七であるが総数は二六を数えた。その分布をみると、長洲町には明治七年創業の積成舎をはじめ、製本・活字鋳造も兼業した大正十三年創業の千葉印刷株式会社等七印刷所。院内には零細なもののみ七印刷所。本町には明治三十七年創業の千葉活版所、同三十年創業の立真舎印刷所等四、吾妻町には大正十一年創業の文友堂等三のほかに、新聞印刷の千葉毎日新聞社があった。以上のほか市場町の志村印刷所や、新町・通町・横町等に各々一印刷所が分布した。
第二位は金属・機械器具の六工場であった。数の上では二位であるが、内容は貧弱で、四は修理工場、一は鋸の加工場であった。ただ一つ度量衡器製作所が機械工場らしかった。
第三位は生繭乾燥の四工場で、片倉製糸・小野組製糸等四社の乾燥場で全て院内町にあった。これらは本県養蚕業の衰退と共に消滅した。以上のほかは、家具の三工場、洋服仕立の二、製氷の二工場が主なものであった。
またこの八年の主要工場として一〇工場の名がみられるが、概略は次のようであった。
- 一、参松千葉工場(新宿町)――従業員七十余人、飴・葡萄糖の年産約一四〇万円
- 二、日東製粉千葉工場(新町)――小麦粉年産約二八〇万円――当市最大の産額をほこったが、十九年の火災及び二十年の戦災で焼失、戦後復興をみずに終わった。
- 三、笹本製紙(新宿町)
- 四、大野度量衡器製作所(新町)
- 五、稲好織物(穴川)――新田町より工場を移転、安房郡の和田工場を吸収して、生産規模を拡大した。ガーゼを生産する企業は関東地方にも少なく重要であったが、戦争のため一八年企業整備にあい、工場施設全部が徴用され消滅した。以後ここは房総飛行機(株)となり、飛行機の部品製造を行った。
- 六、根本家具工作所(吾妻町)
- 七、小川工作所(東院内)
- 八、千葉瓦斯工場(寒川)と、千葉印刷と千葉活版所の計一〇工場であった。
このほかで重要であったものは、
- 一、大日本製氷(株)――院内に大正九年に設立、一日製氷能力約一五トン
千葉製氷所――能力約一〇トンの二製氷所で、その出荷範囲は、安房・木更津・東金・佐倉等に及んだ。 - 二、製菓業では、明治六年創業の大橋堂(通町)と、同三十五年創業の新柳があった。
- 三、セメント製品では、千葉鉄筋コンクリート工業所が吾妻町にあり、製品は主に官庁、市町村に納入した。
三五工場の分布を町別にみると、吾妻町、西院内が各々五工場で一番多く、次いで本町四、新宿町三、長洲・市場・東院内・新町・寒川・片町(現港町)は各々二工場であり、一工場は六町であった。
以上のように当市域に於ては、金属・機械・化学部門ではみるべきものがなく、全国的な重化学工業化の流れには棹さすことはできなかったのであった。
九年四月発行の『大千葉市全図』の産業編には、工業戸数四九〇のうち工場は三七で、従業員五〇人以上二、三〇人以上二、二〇人以上四、一〇人以上一〇、五人以上一九、株式組織のものは、製粉、製氷、製飴、綿布各一の四社のみと記されている。
十年ころの主な製造業の動向は次のようであった。
澱粉製造は、銚子、海上郡での製造戸数は減少、当市域では増大した。蘇我町を中心として工場が三六にも達した。新宿町の参松工業の製造が本格化するにつれ澱粉の出荷は、ほとんど参松向けとなった。同社では「生澱粉」で引きとったので、澱粉乾燥の手間や時間が短縮され、澱粉製造業者にとって好都合であった。
粟漬・卯花漬は、佃煮にくらべ生産額は少なかったが、当地区が独占的に生産し、こはだ、まいわし等は粟漬となり、蛤、馬鹿貝、いか等は卯花漬となった。専門業者は六人であったが、この製造は特殊な技術や設備が必要でなかったので、鮮魚商での製造も多くみられた。
焼蛤は六年ころには、専門店ができ、製法も進歩し、このころには一二の製造業者がみられた。千葉名産として、市域はもとより、東京のデパート・食品店、遠くは秋田・函館方面にも販売された。
胡麻油は蘇我町の今井製油の製品が知られ、原料は三井・三菱等によって満州・中国より輸入した胡麻を使用し、製品は主に東京の問屋に納めた。
木毛は家具などに次いで当市域が県下の主産地であった。包装充填用・椅子・寝台の芯等として利用された。当地区での製造は、大正六年ころからとされ、十年には一〇工場を数え、全県の約七五パーセントを産出した。原料は主に赤松材を使用し、誉田地区や印旛・東葛地方のものが良材とされた。ただ当時は、森林を伐採することを恥とする山持ちがいて、材料が入手しにくい面もあった。