昭和10年 | 12年 | 15年 | 15年の対10年指数 | |
繊維織物 | 53 | 74 | 96 | 180 |
金属加工 | 12 | 26 | 49 | 408 |
機械器具 | 43 | 65 | 158 | 367 |
化学 | 19 | 57 | 234 | 1230 |
窯業土石 | 18 | 15 | 39 | 216 |
製材木製品 | 132 | 176 | 224 | 170 |
食品 | 280 | 411 | 744 | 266 |
印刷 | 15 | 15 | 13 | 87 |
その他 | 36 | 86 | 107 | 297 |
総計 | 608 | 925 | 1664 | 274 |
(『千葉県総計書』)
このように戦時体制下に千葉県の工業は、重化学工業化が進展したのである。ただ工場増加の絶対数では食品部門が、重化学工業部門のそれより、百工場も多く、食品工業中心の千葉県の姿を如実に示している。
同期間の当市域の工場の変化をみると(五―七三表)総数で二・三倍で、県全体の二・七倍よりやや低かった。増加内容では紡織・窯業の五倍を第一に、機械器具三・五倍、製材木製品、化学が各三倍となった。
昭和10年 | 昭和15年 | 15年の対10年指数 | |
繊維織物 | 3 | 14 | 466 |
金属加工 | 0 | 2 | |
機械器具 | 9 | 31 | 344 |
化学 | 4 | 14 | 350 |
窯業土石 | 1 | 5 | 500 |
製材木製品 | 7 | 26 | 371 |
食品 | 46 | 88 | 191 |
印刷 | 7 | 6 | 86 |
その他 | 5 | 7 | 140 |
総計 | 82 | 193 | 235 |
(『千葉県統計書』)
紡織部門では、織物業はガーゼ生産の稲好織物など二工場で、ほかは縫製品やメリヤス工場であった。窯業はセメント管製造が主であった。
当市域の工場増加の内容は、消費財生産が中心で、一般的な重化学工業化とはその内容を異にしていた。
十五年になっても食品部門が最も多く、内容は澱粉、菓子、麦粉の生産が主で、日東製粉千葉工場は従業員五〇人で、小麦粉の年産三九〇万円をあげた。
戦時体制化に立地した主な企業をみると、西製作所――十三年第一工場を轟町、第二工場を穴川に建設して、高圧化学機械の製造を行った。轟町の工場は火災で閉鎖、現在は穴川地区のみで製造を続行中である。
アルコール工場――十二年四月にアルコール工場が稲毛地区の畑地を収用して建設され、十三年四月より製造を開始した。原料は甘しょで、設立の目的は、農村経済の振興と航空用アルコールの製造であった。
日本バルブ――稲毛地区に、軍需工場として十四年より操業開始。水道用から軍艦用のバルブまで生産した。戦後は、パイプ用バルブ関係に転向したが、技術者や労働力の不足から経営不振となり、更に労働運動の影響も加わって、三十年、同所に一万五千坪を残したまま工場は閉鎖された。
内外製鋼所――穴川地区で十五年から自動車および航空機用ピストンケージその他の生産に従事。戦後は自動車部品から洋傘骨地金、硬鋼線等の生産に転向した。
加藤製作所――稲毛地区で十六年から、各エンジン類の生産に従事した。戦後、農業用発動機類の生産に転向したが、労働運動等の影響で生産を中止、用地を売却、現在は一部土木建設用機械類の倉庫として残っているのみである。
以上のように、十二年ころより重化学工業の芽生がみられるようになったものの、本質的には消費都市そのものであった。このような状況の中にあって、当市域にも本格的な工業化への試みがなされ、これが国家的要請とも合致することとなり、また戦後千葉県の工業化の一因ともなった事業が実施された。
それは、十五年十二月二十三日に起工式が行われた千葉市寒川地先から蘇我町二丁目地先の海岸を埋立て、約三百ヘクタールの工業用地を造成するという一大事業であった。この埋立計画が立案されたのは十四年ころで、海軍が航空機の生産拡充を図るためこの地域を指定し、同年九月には永井準一郎市長が埋立免許を申請した。更に翌十五年六月には、内務省土木会議が「臨海工業地帯造成に関する方針」を決議し、この中で最大規模に企画されたのが、千葉――船橋間であった。水産のところに記したように蘇我地先は十八年には主要部分の埋立が完了し、日立製作所、日立航空機製作所の工場が建設され、発動機工場が操業を開始した。十九年には機体製作工場、組立工場等が建設され、本格的に飛行機の生産が行われた。しかし、戦況は悪化の一途をたどり、この年には埋立は中止となり、二十年八月には終戦となって工場存立の意味を失ったのであった。
さて、戦争中は、軍需一色にされた時代であり、戦争と軍需に関係の少ない産業部門を犠牲にして軍需生産の拡大が図られた。当市では、稲好織物工場が、房総飛行機株式会社にされ、白戸木工所(新田町で大正末期から昭和初期にかけて手製の航空機の製造や、操縦士の養成をしていたが、十六年に道場南町に移転)が、埋立地の日立航空機と一体となって航空機の製造に従事し、最盛時は、三百名の工員を擁した。
埋立地における航空機製造の本格化による影響を直接的に受けたのは、澱粉製造の発祥地であり、当市域の食品生産部門の中心であった、稲荷・今井・蘇我地区の澱粉製造業であった。
十四年十月の価格統制令、翌十五年八月の澱粉類配給統制規則等によって規制されはしたが、この製造は集中、発展傾向を示していた。
ところが、十八年から十九年にかけて、埋立地での航空機生産が本格化するにつれ、鉄道、道路の輸送は軍需一色となり、原料さつまいもの運搬に支障をきたすようになった。政府は軍事目的もあって、この地域の澱粉製造所を原料いも産地へ移転するよう促した。当時この地域には六五の製造所があったが、移転希望は数製造所にすぎず、結局、君塚、大野澱粉工場など稲荷町二、今井町三、の計五工場だけを残して、ほかはすべて取りこわされてしまった。江戸時代からわが国澱粉製造のセンターとして知られた今井・五田保地区の昔日(せきじつ)の姿は、これを転機として消失した。幕張地区を中心に存在した貝灰工場は、燃料コークスが配給制になったことや、火の使用からくる火災の心配、戦争による人手不足等が原因して、製造が中断された。
二十年六月及び七月の大空襲によって、中心市街地は多大の損害を被り、参松・日東製粉など代表企業をはじめとして、工場関係の焼失も数多かった。