大震災の前後

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 大正八年(一九一九)に、欧米先進国に範をとって、都市計画法と市街地建築物法が公布され、翌九年から施行された。この両法の精神は、資本主義の隆盛による労働力(人口)の都市集中が、保安・防災という都市問題を発生させたので、それに対処するため、都市における市民生活の基礎を整備することにある。そこには、当然都市的機能を充分発揮できるようにするため、土地の効率的利用を計る、土地の区画整理(都市の平面空間に、合理的に都市的施設を設置=配置するため)が取り上げられてくる。当時、区画整理は都市計画の母である、という標語が流行した程である。そのころ関東大震災(大正十二年九月一日)が発生し、このことの重要性が、朝野をあげての一大関心事となった。震災による千葉市の被害そのものは比較的軽微であったが、被災して、千葉に転居してくる人々もかなり多かった。また大正十年七月に京成電車の乗り入れも実現していたので、かなりの住宅街が、同電鉄の宣伝等もあって、稲毛や黒砂、新町、新宿町には、前後して造成されている。
 市制施行から間もない大正十年十月、市当局も、最初の市営住宅(八畳、六畳、三畳、台所という間取り)を、住宅難を緩和するため、特別会計で四万五千円を起債し、新宿、長洲(現在の柏戸病院の手前)、寒川に計三五戸を建てている。
 一方震災の復興を急ぐため東京には大工・左官・瓦師・鳶等の建設業者は引っ張りだこになり、全国から三万人近くが集められた。千葉にも京浜地区から狩出しにきて、大工の日当は、一円五〇銭から五円、ブリキ職は二円から五円と各々三倍以上に急騰した。京成の千葉乗り入れと、震災は、千葉市の発展を助長し、また地元の業界をも刺激し、そして東京という大都会の影響を強く受ける端緒となった。また、戦前の千葉市で唯一の、高い煙突のある工場といわれた、参松工業株式会社(当時参松製飴)も、東京深川から焼出されて、昭和四年六月に新宿町の日清製粉の敷地を譲り受けて進出してきた。
5―74表 大正年間建築資材価格一覧表
洋釘
(一貫)
松角材杉角材松六分板
(一坪)
杉四分板
(一坪)
大正元年80銭6円 7円   80銭99銭
大正5年1円30銭6円 8円   70銭80銭
大正9年1円10銭29円 31円83銭2円45銭2円45銭

(『千葉郡誌』)


5―75表 大正10年建設関係職工賃銀(東京)(大正10年10月末)
大工3円30銭 
左官4円    
石工3円90銭 
ペンキ塗工2円50銭 
煉瓦積工3円70銭 
畳工3円    
日雇人夫 男子1円98銭 
日雇人夫 女子1円10銭 

(『毎日年鑑』大正11年版)



戦前の参松製飴 <県史編さん室提供>