これが、戦前の千葉の都市的性格を標榜する三本柱の一つ、病院の街のシンボルである、いわゆる東洋一といわれた大学病院である。
千葉医学専門学校正門
千葉医科大学校舎(昭和6年)
建設経過は『千葉大学医学部八十五年史』等によると、昭和六年四月一日に大林組が起工し、五年の年月を経て、同十一年四月十日に竣工し、翌十二年三月に内容整備が完成したものである。
設計は、文部大臣官房建築課設計担当係長柴垣鼎太郎で、敷地は旧医専校舎跡地を利用し、工費五百万円であった。建物の模様は近世式四層の大建築で、現今流行のクリーム色化粧レンガを繞らして、温和な感じを与えて、しかも堂々たるものである。更に、地階並びに屋根を含めると、実に六階を数える。地上より高さが二五メートルで、これが千葉市随一の高台にあるので、屋上では文字通り関八州を指呼の間に望めるという位である。間口は、一〇二メートル、奥行は一〇九メートルで、田の字形をなし、横中央の一辺は一階のみで、両外科の手術場となっている。建坪二、二九三坪、延坪九、四六三坪であった。当時は豪壮広大といわれた。
千葉医科大学附属病院 (昭和12年完成)