大正中期の千葉町の主要道路(本町通り等)はすべて、幅四間足らずで、大八車が通るにも難儀をした。
その拡幅は、区画整理事業として、市内各所で開始された。例えば、本町通りの拡張は、戦前三度実施されたが、昭和五年のものが最大で、その費用は受益者負担で、県税という形で納入した。この拡幅は、本町の地価が、昭和六年井上蔵相の当時、吾妻町・市場を抜いて最上位になる一大要因でもあった。一方泥濘と埃で悪名高い、千葉市の道路はその舗装が不可欠とされていた。甚だしいときは、道路を車でなく、馬に箱舟をひかせて、人や荷物を運搬した程であった。
これに対処するため、県は昭和初期に舗装事務所を、寒川二丁目のガス会社の土地に設置して、内務省土木試験所の指導で試験道路を旧知事公舎(現県職員会館)から旧奈良屋(現セントラルプラザ)間に設定した。
まず、砂利敷、砕石敷をしてその効果を測定したが、砕石敷の方が路盤を堅固にするのには有効であるとの結論をえた。
この当時砕石は、栃木県の葛生から大半が供給され、価格は昭和四年当時で、葛生の山元渡しで一〇トン貨車積一台七円、本千葉駅渡しで三五円であって千葉では骨材の値段は高かった。砂利は、養老川や小糸川河口の川砂利が供給された。
さて舗装は、試験の結果、マカダム工法がテルホード工法より利点が多いとの結論で採用され、県の直営として、昭和七年に前述の試験道路の区間を実施した。
これが、千葉最初の舗装道路であり、工事請負は白井組であった。最初はねばって足下駄をとられたりして、評判は芳しいものではなかったが逐次普及した。市は別に昭和八年度事業として、千葉毎日新聞社前より梅松横町までと、吾妻町新柳菓子店前より演芸館前を通って旧京成千葉駅までを施行した。また昭和九年度には、市場より吾妻町一・二・三丁目を経て市街自動車々庫前で県道に接する線と、旧宗胤寺前より新柳前まで、旧京成千葉駅前より旧国鉄千葉駅前までと大和橋加納屋本店間、梅松横町より合同銀行まで等を実施した。昭和十二年ころまでに、旧市内の主要道路の舗装は完了した。