都川改修と寒川大橋の架橋

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 第一次大戦後の不況によって、都市には失業者を多く輩出させ、農村は疲弊した。昭和八年当時の千葉の失業者は、給料生活者一一四人、日傭者四一人、その他の労働者七九人で計二三四人に達した。政府も時局救済失対事業を起し、公共土木工事にその労働力の雇用を計った。一方農村救済には、経済更生計画を樹立して、特に時局匡救農村振興土木事業を奨励し農道等の整備改修に全力をあげ、当時の千城村、都賀村、椎名村、誉田村等で実績を示した。
 このような労働力事情と都市計画の推進が対応して、昭和六年ころから、都川の改修が失業救済、農村匡救土木事業として県営で開始されたのである。
 特に、三大土木知事の一人である岡田文秀が昭和七年六月に就任すると、一層本格化した。一方、葭川の改修と葭川公園の造成は、昭和九年、時局匡救事業の一環として市営によって実施された。同年の市予算で土木費の歳出は、経常と臨時を合わせて七万二一一七円で、その他、農村振興土木工事費、時局匡救土木工事費として八、二七六円の市債を起債している。
 都川改修工事は、寒川築港も兼ねて、三八万円の工費で、昭和八年から二カ年の継続事業として本格的に始まった。工事の内容は、護岸、河底の浚渫等を施工して水利の便を計り、都市の美観にも役だてようというものである。護岸工事は、特に冬季の減水期に、農閑期の労働力を日当七〇銭位で雇用して行った。工法は、土台には伊豆石積、万年屏を構築するのと同じ理法を用い、さらに縦長のコンクリート板を、シィートパイル工法で打ちつけた。
 その他、川幅の拡幅や、特に都川は曲流箇所が多く、洪水も甚大であったので、流れをよくするため、その部分をショートカットし短絡した。
 この改修のとき、大和橋もコンクリート橋にかわった。
 この当時、都川にかかる寒川大橋(工費二二万円、長さ四〇メートル、幅八メートル)、羽衣橋、都橋、吾妻橋等が鉄骨コンクリートで、白井組によって県営で施工された。この永久鉄骨コンクリート架橋は、当時軍の機甲化(特に千葉周辺には軍施設が多かったので)にともなって出現した、戦車、トラック、重砲用トラックなどの移動に対応できるようにするためでもあった。葭川架橋は市営で、そのうちの一つ日本橋(現千葉県建設会館前)は昭和九年三千六百円の工費で完成した。

市内で初のコンクリート橋・寒川大橋(昭和8年着工)