上水道と下水道

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 県都、千葉市における上水道給水は、明治二十年に既に完成した横浜(日本水道近代化の始まり)は別格としても、大正元年開設の宇都宮市に比較してもかなり遅れて、昭和十一年六月である。これは「上総掘り」等の井戸掘技術の普及と、地下に水源が豊富で(現在でも都川流域の沖積面では、関東造盆地運動の結果、地層が単斜構造になっているため、被圧地下水が自噴している場所がある)比較的容易に水が得られ、また大量に給水を必要とする大工場もなかったからである。
 上水道の建設は、市営案もでたが、当時の千葉市の財政規模では無理なことから、県営水道として、江戸川及び都川水系の地下水を水源とし、昭和九年(一九三四)十月十日に起工、昭和十一年六月に完成し、給水を開始した。当時の計画は、千葉など一二カ町村を給水区域とし、給水人口二五万人、一日の最大給水量は三万七千五百トン、工費は三五〇万円であった。また矢作町の高台にある都川給水塔(県水道局管理の千葉水源高架水槽)も昭和十二年に構築したもので、高さ三〇メートル、直径一一メートルもあり、当時、新築間もない大学病院と共に、市民の眼を引いたものである。参考までに現在市内で給水量の多い事業所等のベスト・エイトを列挙すると、鬼怒川ゴム、千葉ステーションビル、国立千葉東病院、塚本ビル、放射線医学研究所、ニューナラヤ、千葉県庁(本庁庁舎)、国立病院の順になる。このほか千葉市には、民間水道として日興工業水道が今井町にあったが、昭和二十四年に県に買収され、その施設が現在県水道局の今井分場になっている。

都川給水塔(昭和12年構築)

 下水道は昭和十年十二月都市計画事業の一環として、旧市内の繁華街(旧国鉄千葉駅から吾妻町にかけての一帯)である中央地区(排水面積四六・六ヘクタール)を第一期工区として着工し、昭和十三年三月竣工した。
 都川、葭川等の河川で排水を処理し、一万人、二千五百戸を対象としていた。次いで昭和十五年九月には、第二期工区として、周辺市街地区全域(排水面積三七三・四ヘクタール)の計画を樹立して、事業費三二〇万円で二〇カ年継続事業として起工したが、第二次大戦で中止となった。この計画は昭和三十年に完成した。
 第一期工区建設当時の日当等は、土工一円、石工一円五〇銭、管工一円五〇銭、割栗石(葛生産)一立方メートル四円五〇銭であり、排水管は鉛管でなく鋼管を使用した。
 施工前の下水排水状況等は、『千葉市下水道事業計画説明書』によれば、「本市は、本町、吾妻町を都心として自然の成行に委ねつつ、住宅地化し近年著しく人家稠密せるに至れり。……下水排除の現況は殆ど総て無蓋露渠にして、其の狭少なるは、一尺内外より稀に六尺に達するもありと言へ共、多くは元田畑の間を流れし溝渠なり。……殊に都心部は土地平坦なるため下水の疏通に便ならず、常に汚水、塵芥類溝渠内に沈澱腐敗して汚泥と化し、蚊・蝿の発生激甚にして……。」と記してある。