用地は、作草部の農家が鉄道連隊や、歩兵学校に納入するために栽培していたゴボウ等の野菜畑であった。
買収価格は、一反当たり四百円平均であった。当時軍の用地買収は、地租を基準にした登記価額で土地を評価し、地目は山林、畑、宅地と分けた。地主側と陸軍経理部の経理官が立会で行い、不調の場合は、市町村の首長が仲介に入った。
最大の建造物は気球の格納庫であるが、全部で三棟あったが、うち最初の一棟は、軍縮等の政策で宇都宮の第一四師団から、創設時に移転したものである。ほかの二棟は、軍備拡充で昭和八年(一九三三)に、当時数少ない格納庫等の鉄骨組立構築専門の巴組が設計し、工期三カ月で、東京の石田組が施工した。人夫には、小中台を中心とした地元の農家の人達が従事し、左官、鳶等は東京から来た。
この時の格納庫は、建坪三千坪という広大なもので、現在その一つが作草部町九〇九番地にあって、川光倉庫(川鉄の系列会社)千葉支店の政府指定倉庫として使用されている。また、付近に将校集会所が残り、さらに、燃料庫(モルタルセメント造り)の一部が、日本通運の車庫として利用されている。各施設の維持・修理には、民間の業者や、工兵が当たっていた。
5―17図 千葉市管内主要軍施設一覧