陸軍戦車学校

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 昭和十一年(一九三六)十二月一日、千葉市穴川地先で開校式を挙行した。
 『毎日年鑑昭和九年版』によれば、陸軍は、当時満州事変以来の大陸侵攻作戦や、兵力・兵器の近代化(機甲化の促進)に鑑み「時局兵器改善計画」を発表した。なかでも、戦車、ガス、飛行機等の機械化(技術)部隊の増強を強力に推進しようとしていた。なかんずく、戦車隊は、福岡県の久留米にしかなかったので、東日本地区に帝都防衛も兼ねて我が国第二番目のものとして、千葉に設置されたわけである。
 八万坪余の敷地の用地買収は、昭和八年ころから開始され、穴川、黒砂、小仲台の農民から、甘藷、落花生、ホウレン草、大根等の畑地を一反歩千円前後で買収した。当時農地は、水田一~四等地、畑地一~三等地と反収の多寡で区分されていたが、軍当局は、一括して地価を評価した。そこで、農地の評価額をめぐってトラブルが生じた。農民側は不売同盟や、単価のつり上げ、代替地の斡旋確保を強硬に要求した。これに対して、軍側は懐柔策として、今年買収に応じれば、その翌年は倍の価格で買うとか、一方では陰で憲兵を使って、反対農民を召喚して圧力をかけてきた。穴川の場合、戦車学校の進出で三六戸中、三〇戸の農家が転業を余儀なくされたが、その資金や職業は斡旋してくれなかった。男子の転業先は日雇人夫、掃除夫、戦車学校の職員、女子は市内各軍施設の縫製工というところが大部分であった。中には買収代金で、代替地を園生、大日、千城方面に購入し、徒歩か自転車で通勤耕作する人もいた。結局穴川の農民は、昭和十二年段階で、農業の専業か、兼業か、離業かの決断に迫られ、三方向に分化したわけである。
 一方建設工事は、昭和十年から二年がかりで進められ、整地は穴川、作草部、犢橋、長沼、小深方面の農家の人が、一日平均一〇〇~一五〇も従事して行われた。設計は陸軍技手が担当し、建設は東京の木曽組が請負った。
 戦車学校、防空学校等の建設は、当時商工、内務両省御用特命建設会社であった建木(けんもく)社の出先機関(子会社)である木曽組が、設計・建築・土木施工一式を一手に請負っていた。付設建物の建築費は、坪当たり四〇~五〇円であり、材木の仕入先には稲毛の並木材木店も加わっていた。