昭和十三年(一九三八)十月十四日に、小中台で開校式を挙げ、その後三度の拡充をし、昭和十九年四月には千葉陸軍高射学校と改称された。大正十一年(一九二二)に、四街道の陸軍野戦砲兵学校内に高射砲練習隊が創設されたのに期を一つにしている。当時の対空射撃は四街道の野砲兵が大砲を上空に向けて打つ訓練を片手間にやっていた。
最初の建設計画は、規模が大きすぎると、経理部等からクレームがつき三〇パーセントに縮小する案も出されたが、建設の過程で、当時の防空の実情を考慮して、一年後に当初の計画に落ち着いた。付設して、トーチカ、防空濠、照空燈(一基)や高射砲(二四門)の台座(輪転台)も構築された。しかし千葉市空襲時に、実(臨)戦部隊ではないので、対空砲火としての威力を発揮することはなかった。実弾射撃訓練は、九十九里の片貝海岸で主にやった。
建設の計画、用地の買収、施工、監督は陸軍の経理部が一切を担当した。用地の買収は、昭和十三年ころから開始され、園生、小中台地区の農家一八軒の畑地や草地が対象になった。買収価格は一反歩五百円程度であった。第二次の用地買収は、同校の幹部候補生隊(現在の市立高校の場所に昭和十九年開設した)のもので、昭和十六~十七年ころ主として園生地区の農家一三軒から、一反歩当たり千円位で実施された。これは畑地の場合で、草地は坪八〇銭位であった。
建設を請負ったのは、木曽組で、一面畑地と草原で、道路もろくになく、工期が非常に短いので苦労した。整地は一日に多いときで、三百~四百人の人夫を使用し、終戦間際でも百人位を使用していた。大工は東北地方から呼び寄せ、人夫は近隣の小中台、園生の農家の人で、日当一円位であった。トロッコ押は、朝鮮人労働者を百人程度、警察からの依頼で使用した。整地は、土地を掘り起こし、関東ロームの地盤を硬く締めるため砂利を入れる必要があったが調達が困離で、予算も少なかった。砂利は鬼怒川、砂は養老川河口から、数少ない軍用トラックで運んだが全く不足していた。幹部候補生隊の施設の設計は、経理部の服部三次が担当し、木曽組が昭和十六年に入札を終わって、三百人の大工、人夫などを使用して工事を開始したが、総工費は一四〇万円であった。高射砲の台座は、東京の専門屋山田組が請負い、高射砲はすべて、陸軍直営の東京小石川の砲兵工廠で作製したが、昭和十九年当時には対空兵器として着弾距離を延長するため、七口径から八口径に変更した。建坪の単価は五〇~六〇円であった。建設資材は官給品で、東京向島にあった陸軍の需品廠が調達した。
この設計は、建物を一列に配列するのをやめて、六棟を不規則に配置した。これは戦争になれば爆撃の目標になりやすいからであった。建設期の昭和十七~十九年というと、空襲問題が(本格的な被爆はまだなかったが)切実な関心を呼び、防空学校という立場からも非常に敏感であったわけである。防空学校開設に際して、高圧線の七万ボルト幹線は、県内では松戸方面のみしか敷設されていなかったので、東電と交渉して、高電圧の送電を可能にしたという電力問題があった。一方給水は、送水管が細く、特に、鉄道連隊の「軽便」の踏切下では、水圧が下るので、当時京成稲毛駅付近に加圧所を設置している。