軍施設の被災状況

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 昭和二十年(一九四五)六月、七月の再度の空襲によって、特にそれが軍施設の破壊が最大の目的であったので、相当被害を受けた。
 鉄道第一連隊 破壊焼失率九〇パーセント。その被害は軍施設中最大で、兵器庫、炊事場、被服工場が残った程度である。
 材料廠(補給廠) 破壊焼失率一〇パーセント、建築物その他の施設、設備をかなり長野県に疎開しておいたので、完全に焼失したのは三五〇棟中三棟であった。
 歩兵学校 破壊焼失率八〇パーセント、炊事場は残った。
 陸軍病院 被災をまぬがれた。
 戦車学校 破壊焼失率一〇パーセント、二、三棟が焼失した。
 防空学校 損害軽微、三棟が焼失(特に幹部候補生隊は建物の特種配列でまぬがれた)。
 
 敗戦で、土地、建物等すべての軍施設は、凍結し、国有財産として、大蔵省関東財務局千葉財務部が管理することになり、千葉は軍施設が多く、千葉財務部は局に昇格する程の多くの業務を処理した。
 軍に土地を買収された旧地主からは、復権要求が起こり、県は調整課を設置してこれに当たった。
 
 軍施設の建築物は、兵舎その他木造が大部分であるが、重装備(完全装備)の兵隊が多数同時に直立しても大丈夫のように、頑丈に出来上がっていた。使用する木材も八寸角の柱で、三寸釘や五寸釘を多く使用していた。
 耐用年数は、経理部工務課では普通兵舎は五〇年とした。しかし修理や、補修が不充分で、よくこわれたという。昭和期になってからの、兵舎の建材は、板材として地木の山武杉が、土台には「ひのき」や「ひば」、柱には杉、梁には松材がよく使用され、瓦は三河、埼玉、群馬産が多かった。
 中隊長の部屋は二階の真中にあって、全体を常に掌握しやすくしていた。出入口は非常に広く、これは非常召集の場合、同時に大量の兵隊の行動を考慮してのものである。採光のための窓などの広さは、建物の表面積の一〇パーセント以下になってはいけないという規定があり、換気は、床を普通建物より高くして、内務班一人の兵隊の換気量を一四四立方尺として、この点も考慮した。二百坪以上の建物には、防火壁を設置することも大事な基準であった。内務班の部屋の広さは、三間×三間のほぼ正方形で、そこに寝床がカイコ棚スタイルであり、定員は二八名であった。修理営繕は、重量物の取扱いの多い補給廠が一番多かった。給水は、最初気球隊の近くに地下水の揚水場があって、歩兵学校以外はそこから配水していたが、衛戍病院等で施設が拡充して、収容者も増加してきたので、需要が増大してきた。そのころ、県営水道も完成(昭和十一年六月)したので、逐次各軍施設に、従前の軍の自家水道に代わって給水されるようになった。
 このほか明治四十一年に、鉄道連隊兵士の墓として、陸軍墓地が現在の荒木山の忠霊塔付近に造成された。