戦時体制下の建設業

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 昭和十二年に勃発した、日華事変の進展にともない、その後に国家総動員法、防空法の制定があって戦時色が一段と強まってきた。建設業も軍需がその中心となり、業界も統合整理され、各々の業者は陸軍関係は「軍建協力会」「戦時建設団」、海軍関係は「海軍施設協力会」に所属し、一本化された。
 昭和十一年に、まず資金面(建築費)で統制(臨時物資統制令)が実施され、料理屋、キャバレーなど、戦時遂行に不急不要のもので、五万円以上を要するものは不許可になった。その後資材面からの規制が行われ、銅使用制限令や鉄鋼工作物築造許可規制が昭和十二年に実施され、石油罐を解体して作る雨樋なども不許可であった。更に昭和十四年には、木造建築物統制規則が施行されて、一般民家は建坪三〇坪以下、農・漁家は作業場を含めて四五坪以下と規定された。昭和十八年には、前記の諸規則を統合して、釘、トタン板、針金、セメント、ガラス、木材、瓦、スレートなどすべての資材が配給統制で衣料と同様キップ制になり、食料の統制以上に苦しかったという。そして、石綿製の金剛煙突まで統制品になり、瓦や煉瓦も燃料不足で製造できなくなり、なんでもかんでも固まりそうな土を代用に使用した。最後には、キップを受け取っても、現物が貨車不足で着荷せず、建設業は全く行詰った。
 一方昭和十七年には防空建築規則が改正され、防空緑地(空地)が、千葉市でも昭和十八~十九年に探照燈設置基地として松ケ丘や都町に、畑や山林を転換して造成された。昭和十八年十二月二十一日には、「都市疎開実施要項」が出て施設疎開が千葉市でも内務省防空本部の指導で県、市が担当して推進された。
 この目的は、空襲などによる被災を最小限に止めるため、建物の疎開によって、空地を随所に造成し、延焼の防止、避難や防火活動等の緊急時に対処しようという点にあった。戦前、千葉市で一番建造物が密集していて、災害等の非常事態が発生した場合問題になった場所は、蓮池地区であった。
 千葉市の場合、都市疎開(建造物の強制疎開)は千葉防空都市建設工事として、昭和十九年の暮から、昭和二十年の終戦直前まで三次にわたって実施され、取り壊しや、引き倒しは軍隊が出動して行った。対象となった地域には、係員が執行命令の赤紙を建造物にベタベタ片っぱしから貼り、有無を言わせなかった。主に、これが実施されたのは、当時の国鉄千葉駅から本千葉駅までの鉄道沿線と、栄町、通町、富士見町、本千葉町、要町、吾妻一、二丁目という中心街であった。鉄道沿線に重点を置いたのは、常に輸送の正常確保のためである。その他空襲の際、標的になりやすい目だった建造物には迷彩を施した。
 対象となった建造物は、大学病院と当時の県庁舎、都川給水塔、警察署、県立中央図書館(現婦人会館で、迷彩の模様が一部残存している)等であった。防空濠も各所につくられ、猪鼻山には二百~三百人収容できる横穴式のものが、市職員らの勤労奉仕作業でつくられた。一般市民も警防団等の指導でつくったが、土圧を支える杭としての丸太が入手しにくく、廃材を集めたり、リヤカーを引いて加曽利、犢橋方面まで行き、山持の農家から、虎の子の衣料品と、食料同様物々交換して得た。