建設業界の組織化

407 ~ 409 / 492ページ
 昭和二十四年(一九四九)に建設業法が制定されて、「土建屋」、「請負師」と封建性の化身のように呼ばれた土建業は、建設業と改称され、職業安定法(昭和二十二年制定)による雇用関係の変革とあいまって、近代的産業への脱皮に一歩を踏みだしたわけである。
 しかしここに到達するまでには、多くの苦難があった。
 千葉市の業界には昭和初期まで、たたき大工などからのし上がった請負業者(棟梁)にも、一般の出入り職人の中にも組合組織的なものはほとんどなかった。ただ、棟梁、職人を含めている親睦の寄り合いである太子講だけが旧正月の日に開かれ、酒宴を張って多少の技術の相互研修をする程度であった。これは棟梁が親分として威厳を示す場所で、配下の出入り職人は、もっぱら平身低頭で絶対服従をさせられた。太子講とは、大工・左官・鳶など職人の神様が聖徳太子であるので、それに由来したものである。そして、野帳場(共同施工)における出入り職人同志の出入が、時に修羅場を生みだしたり、談合屋がはびこり、更に親方(棟梁)の出ずらのピンはね等々、数え上げたらきりがない程非合理性がまかり通った世界であった。
 時あたかも、第一次大戦後の好況(建設業は、大戦後は一般と違って好況で、昭和四年末の世界恐慌の不況は、昭和六年ころボトムとして到来)や、都市計画事業等の推進で、公私の事業(工事)が増加し、建設業への需要も増大してきていた昭和四年四月に、本県初の建設業者団体として、千葉市土木建築請負業組合が結成された。
5―79表 千葉 県土木建築請負業連合組合員(千葉 市内組合員名)昭和8年末現在
氏名住所
(当時の地番)
氏名住所
(当時の地番)
氏名住所
(当時の地番)
今井鷹司寒川 1,364渡辺道太郎寒川 1,186小松翠寒川 949
島崎留次郎寒川 1,259長峯定吉寒川 933行方馨寒川 1,084
中村庄吉千葉 596酒井治郎七寒川 1,520若王子平東院内 1,038
松崎清一千葉寺小川四郎千葉 1,572中村勘蔵千葉寺
中村力千葉 967森政吉西院内 1,315高長谷常吉吾妻町 2
高橋栄三横町 1,555馬込国三郎寒川 1,259浅野寛寒川長洲
中台慶三郎千葉 1,356黒田明寒川 1,241戸田亀造吾妻町
小川辰之助千葉 350浜田善右衛門登戸 86山崎啓次郎新町 2,510
中務好美千葉 1,583田中留吉五田保 394高山仁助寒川 368
内田好房千葉 1,636国松喜三郎寒川 262棚場春吉千葉 

(『千葉市年鑑』昭和9年版)


千葉県土木建築請負業連合組合本部     所在地   千葉市吾妻町3丁目
                     組合長   今井鷹司
千葉郡市土木建築請負業組合        所在地   千葉市吾妻町海老屋内
                     組合長   森政吉
千葉県土木建築株式会社(組合出資の会社) 所在地   千葉市吾妻町3丁目
                     社長    今井鷹司
                     事業内容  セメント,鉄材その他建築材料の販売,並に製図,設計,監督等及び建築の請負をする。
 その組合事務所は県庁、市役所に近く、諸々の許可申請、審査などの書類手続には恰好の場所であった。現在でも、千葉市の建設業関係の営業事務所等は、県庁から柏戸病院にかけての長洲通りに集中している。次いで、昭和六年には、千葉県土木建築請負人連合会が結成された。これには、千葉市を皮切りに、公共工事、鉄道、軍関係工事に指名参加する県内の業者がほとんど参加した。両組合の結成は、一つは、大手業者の存在しなかった千葉を草刈場として東京など外部から大手業者が進出してくるのを防ぐためであった。特に関東一都六県の業者に対しては、地元千葉の業者で施工できる程度の工事は、全部委せてくれるよう要請し、並はずれての大型工事のみ進出を認めた。
5―80表 千葉市管内建設業関係会社工場一覧(昭和8年末)
名称代表者
白戸木工所白戸栄之助
千葉鉄筋コンクリート工業所戸田亀造
千葉土地三上弥惣治
千葉県土木工業今井鷹司
岩井鉄工所岩井明治郎
向後鉄工所向後儀兵衛
佐藤鉄工所佐藤喜一
増田製材部増田時治
金木製材工場篠崎菊治
斎藤製材工場斎藤藤三郎
篠崎製材工場篠崎駿
長谷部鉄工所長谷部豊
小川工作所小川理三郎
根本家具工作所根本八十次
塚本屋鋸製造所石橋半造
鵜沢製材工場鵜沢力蔵
杉田製材工場杉田貞治
大政木工場森政吉

(『房総年鑑』昭和9年版)


5―81表 千葉市管内建設業関係会社(昭和13年末現在)
名称所在地主要事業
千葉土地株式会社本町1丁目1仲買委託売買及び仲立業
千葉県土木建築株式会社吾妻町3丁目37土木建築請負業
株式会社川島屋吾妻町1丁目41建築材料販売業
合資会社千葉鉄筋コンクリート工業所吾妻町3丁目11その他の工業
合資会社西川商会本千葉町73建物賃貸業
合資会社鈴本商会吾妻町2丁目7土地家屋の売買等その他の食料品販売業
合資会社千葉建工社長洲町1丁目101土木,建築工事請負業
合資会社嶋崎組新宿町2丁目1土木,建築請負業
合資会社斎藤勝次郎商店本町1丁目14セメント及び加工品販売業
合資会社白戸木工所新宿町1丁目115家具製造業
合資会社遠洲屋材木店検見川5丁目255材木販売業
合名会社大島屋通町2金属材料品,同製品,琺瑯,鉄器販売業

(『市勢要覧』昭和14年版)


5―82表 千葉市管内建設業関係工場(昭和13年末現在)
名称所在地主要事業
合資会社千葉鉄筋コンクリート工業所吾妻町3丁目11セメント製品製造業
根本家具工作所吾妻町2丁目17家具製造業
鵜沢木工場院内町50製材業
小川工作所院内町183建具及び家具製造業
白戸木工所新宿町1丁目115建具及び家具製造業
向後鉄工所新宿町2丁目6機械類修理業
増田製材工場港町48製材業
篠崎製材工場神明町214製材業
市原製材所新宿町2丁目6製材業
深山鉄工場寒川町1丁目206機械器具製造業
斎藤製材工場港町48製材業
杉田製材工場吾妻町3丁目14製材業

(『市勢要覧』昭和14年版)


 また、業界に巣喰っていた談合屋であるが、関東では「金筋」、関西では「団子取り」と称して暴力団的なやくざ稼業であって、入札時に施主(建主)と業者との間に介在して、請負契約額の一〇~一五パーセントから極端な場合は五〇パーセント位を徴収していた。このため組合を結成して、談合屋を排除し、業界の明朗化を期した。
 その経緯は、各業者は請負額の五分を拠出して、組合に一分、建設会館建設資金として一分、面倒を見て貰った大棟梁(親方)に三分と配分し、三カ年を要して当時としては非常に刷新的な組織ができた。特にこの大棟梁(親方)は、組合結成後もしばらくの間隠然たる勢力を持ってにらみを利かせ、新規のものが工事を欲しいなどと希望すると、「お前はまだ早い」の一言でペシャンコにされたので、三分は祝儀として包まないわけにはいかなかった。