5 商業

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 大正期の不況はながかった。大正九年(一九二〇)から六年もつづいた。毎年の年末になると、新聞は経済界の指導者の予測談話をのせて、来年こそは不況からぬけだすだろうという記事をくりかえした。しかし昭和期になると不況は更に深刻になった。昭和二年(一九二七)から金融恐慌がはじまり、昭和四年(一九二九)から世界恐慌がおしよせてきた。中小企業が経営をつづけるには、操業短縮、賃金の切り下げ、従業員の首切りをしなければならなかった。中小企業には倒産・解散・閉店するものもあらわれた。都市には失業者が多くなり、村にも職を失って帰ってきた失業者がふえてきた。人々の購買力が減じて商店街の不景気も更に深刻さを加えた。物価はどんどん下落した。一九一〇年代の第一次大戦後の好況に物価は最高になり、東京卸売物価指数は一八五であった。大正期の不況には一三〇を上下していた。金融恐慌に入ると一一〇に下落し、世界恐慌に襲われると物価指数は八〇~七〇まで下落した。
 世界恐慌のころ(一九二九~一九三三)の千葉市の戸数は一万一千戸、人口は五万一千人、千葉市商店街の商圏には人口が七万四千人、戸数は一万五千戸であった。この商圏内の中心商店街として、一九三三年には千葉市の商店が二、四二八店(物品販売業に製造販売業と料理飲食二百・カフェー六〇を含む。)であった(五―八三、八四表参照)。このうち吾妻町一・二・三丁目に商店は四二四店でもっとも多く集まっていた。東院内町・西院内町に商店は三五五店、本町一・二・三丁目に商店は二七八店であり、市場町に一七五店、これにつづく長洲町に一四八店もあった。また横町に一五一店、通町に九二店があった。これらは千葉市の商店街のうちでも中心商店街といわれたところで、商店数は一六二三、総数の六三・七パーセントが集中していた。そのほかに新田町に一二二、新宿町に一一九、片町に一二二の商店があった。これら町々は新興の住宅街として住民が増加していた。
5―83表 千葉市の商店数(昭和8年調)
町名店数町名店数
市場町175新田町122
本町3丁目157新宿町119
本町2丁目79向寒川18
本町1丁目42長洲町148
横町52片町122
南道場町69仲宿町29
北道場町64下仲宿町24
東院内町153下宿町38
西院内町202登戸下町32
通町92登戸中町33
吾妻町1丁目46登戸上町14
吾妻町2丁目209登戸穴川町12
吾妻町3丁目69千葉寺町33
横町99五田保町38
綿打池34黒砂町11
穴川16合計2,428

5―84表 千葉市の商店(昭和8年調)
業種店数
白米穀類83
蔬菜果物類83
乾物20
魚介藻類56
鳥獣肉類58
豆腐こんにゃく類34
まんじゅう・菓子257
酒・す・みそ・醤油99
19
呉服反物21
洋服74
古服・古着5
蒲団・蚊帳9
糸・綿6
帽子6
雑貨83
洋品34
履物56
靴かばん30
眼鏡金属9
時計19
化粧品小間物28
建具82
表具ふすま10
和洋家具26
たんす長持4
箱ふろ桶16
仏具3
畳・むしろ2
古道具54
和洋傘11
提灯5
陶磁器がらす18
楽器蓄音機5
写真機材料1
電気機ラジオ15
ガス器具2
自動車・部分品11
自転車・部分品36
金属器具19
その他の機械器具16
木炭・石炭・薪76
石油ガソリン9
木材竹材29
石材・レンガ・セメント17
薬品売薬37
紙・文房具30
図書・雑誌・新聞29
玩具・運動具12
生花・植木13
荒物31
煙草38
印判4
漬物17
足袋18
袋物3
百貨店1
その他227
料理飲食200
カフェー60
その他飲食店139
合計2,428

 昭和八年(一九三三)から物価はまた上昇し始めた。東京卸売物価指数は一一〇にはね上がったままで四年もつづいた。更に十二年(一九三七)から一三〇台となり、その後ふたたび物価は一七〇~一八〇まで急上昇し始めた。この物価の変動は第二次大戦の戦争経済が始まったからであった。六年(一九三一)に満州事変がおこり、十二年(一九三七)に日華事変に拡大した。その後更に戦争は広がり、十六年(一九四一)から第二次世界大戦に突入した。年ごとにふくれあがる軍事費は、国の一般会計の三分の一を占め、戦争物資の生産と武器の生産につぎこまれた。戦争をつづけるために物資を消耗していくので、生活物資の不足が年ごとに目だってきた。政府はあらゆる産業と経済に統制を強めて、さまざまの統制令をやつぎばやに公布した。生活物資の不足は商品の不足であり、消費生活に必要な各種の商品には配給統制が行われた。市民は消費節約、代用品の使用を強制され、購買力が目だって小さくなった。商店の営業がしだいに困難になってきた。

本町通り(昭和10年代)


吾妻町通り(昭和10年代)

 統制経済がしだいにきびしくなり、商業活動がきゅうくつになってきた昭和十五年(一九四〇)に千葉市は商業調査を行った。この資料の一部が残っているが、当時の千葉市商業を知るうえに貴重な資料となっている。同年の千葉市の戸数は一万八千戸、人口は九万一千人に増加していた。産業別世帯からみれば、十四年(一九三九)の統計であるが、総世帯数が一万八八二九であり、このうち商業世帯がもっとも多くて二四パーセントを占め、公務・自由業世帯が一七パーセント、工業世帯が一五パーセント、農業世帯が一二パーセント、交通業世帯が九パーセント、水産業世帯が二パーセント、無業世帯(恩給生活者)が一二パーセント、その他が七パーセントであった。この消費者世帯数に立地する商店数は二、六六九店であった。八年(一九三三)にくらべて、戸数は一・六倍、人口は一・八倍に増加したが、商店数は三パーセントも減少していた。千葉市の商店街は商圏も拡大していたにもかかわらず、商店数はよこばい状態であった。
 昭和十五年(一九四〇)の千葉市の商店数は昭和前期において最大になったときであった。商店総数は、二三六七店、このうち卸売が五五、卸小売が一八六、製造販売が三九八、小売が一、七二八(食堂・カフェー・喫茶店の六一、料理店の四八、その他の飲食店の一八六、小計二九五を含む)であった。これを商店開業年度からみれば老舗はまことにすくなかった。総数の六・六パーセントにあたる一五二店は営業年数が五〇年以上であり、明治二十五年(一八九二)以前の開店であった。営業年数が三〇~五〇年になる商店は総数の九・二パーセントにあたる二二〇店であり、これらは明治二十五~四十五年(一九一二)までに開店した商店であった。当時の老舗というべき商店はこの四一二店であった。明治三十年代の商店の業種と店数を述べている『千葉繁昌記』(君塚辰之助著)には当時の千葉町の商店数を一、四七四店とあげている。(五―八五表)この二八パーセントが営業をつづけてきたが、残りの七二パーセントは消滅した。営業年数が二十一~三十年になる商店は一二・二パーセントに当たる二八七店であり、これらは大正元~大正十一年(一九二二)の間に開店した店であった。営業年数一一~二〇年になる店は六〇五店(二五・五パーセント)は大正十一~昭和五年(一九三〇)に開店し、残り一、一〇三(四六・五パーセント)は昭和六年から開業して一〇年未満の商店であった。商店の五四パーセントは大正期の不況や昭和前期の金融恐慌、そして世界恐慌をのりこえて、営業不振のため閉店するものもある中に生き残ってきた商店であった。これらの商店は戦争中の統制経済がきびしくなり、商品は不足し、購買力も減少したので営業をつづけることが苦しくなった。この商業調査において営業維持が困難となった商店は総数の五七パーセント、一、三六九店になった。これを業種別にみれば、商店の七〇パーセント以上が困難となった業種は米穀店、肉屋、菓子屋、酒屋、薪炭屋、肥料屋、飲食店などであった。また商店の六〇パーセント以上が困難となった業種は魚屋、洋品雑貨屋、金物屋、荒物屋、豆腐屋、食堂・カフェー・喫茶店、古物商などであった(第86表)。
5―85表 千葉市商店の営業年数(昭和15年調)
業種総数ABCDE
1米穀24102534
2蔬菜果物9143261372
3魚介704316542
4乾物42189456
5肉類361116531
6駄菓子150615020145
7せんべい28108532
8菓子128593411159
9酒類1213825181723
10食料品1648040141218
11洋品雑貨114433423131
12文房具48279534
13薪炭6021171273
14家具33157353
15瀬戸物22133231
16金物2767455
17呉服381910324
18洋服98651977
19婦人子供服211
20夜具布団163364
21玩具2611942
22小間物25136321
2346301042
24履物5519141273
25時計眼鏡311710112
26電気器具ラジオ151041
27薬品化粧品56311446
28蓄音機51311
29書籍雑誌2512931
30荒物81172714158
31肥料92232
32建築材料361510623
33木材2486433
34新聞販売61311
35機械器具166631
36竹細工14464
37煙草63201511116
381443223
39釣具7412
40切花1587
41種苗9522
42自転車442111102
43豆腐321012541
44古物商4130722
45その他6526151257
46食堂カフェー喫茶61458431
47料理店482212455
48飲食店18612739794
合計2,3671,103605287220152
百分比100.046.525.512.29.26.6

Aは開業年数が10年以内,Bは11~20年以内,Cは21~30年以内,Dは31~50年以内,Eは50年以上


5―86表 千葉市の商店の営業困難となった店(昭和15年調)
業種総数営業困難業種総数営業困難
1米穀24187826電気器具ラジオ15426
2疏菜果物91404427薬品化粧品562951
3魚介70456428蓄音機5240
4乾物42255929書籍雑誌2528
5肉類36287830荒物815568
6駄菓子1501137531肥料9889
7せんべい28258932建築材料361233
8菓子1381017333木材241565
9酒類118917734新聞販売6116
10食料品164865135機械器具16953
11洋品雑貨112696136竹細工14428
12文房具48285837煙草633657
13薪炭6049813814428
14家具33123639釣具7343
15瀬戸物2283640切花15426
16金物27165941種苗9333
17呉服38184742自転車442557
18洋服98141443豆腐322268
19婦人子供服215044古物商412663
20夜具蒲団1685045その他653354
21玩具2683046食堂カフェー 喫茶613659
22小間物25114447料理店482245
2346153248飲食店18613371
24履物551629合計2,3671,36957.8
25時計眼鏡31929


5―20図 昭和前期における千葉市中心商店街の図   (和田茂右衛門氏指導,県立千葉高等学校地理クラブ作成)

 太平洋戦争が始まって二年目、物資不足からますます営業は困難となった。この年に開店していた小売店は一、二四一戸となり、はやくも昭和十五年(一九四〇)の調査時点の五二パーセントに減少していた。昭和十七年五月十二日、商工、農林、大蔵、厚生、各省次官通牒による「小売業整備要綱」が発動され、一部の商店のみ残り、ほかの商店は閉店させられて、軍事工場などの従業員にさせられた。このとき残った商店は、呉服織物店が三四、洋服店が一二、婦人子供服店が三一、燃料店が三一、食料品店が一四六、家庭用雑貨店が一二四、酒店が七九、合計四五七店であった。戦時生活に必要欠くべからざる物資をとりあつかう商店のみとなった。この商店の転廃には多くの問題点があった。しかし戦争遂行の名の下にすべてがおしきられた。そして昭和二十年七月、千葉市は空襲をうけて市内の家屋密集地域の約七〇万坪、戸数八千九百戸が戦災をうけて灰燼に帰した。この戦災区域の中に中心商店街があったので見渡すかぎりの焼野原となった。