県庁所在地の千葉市は、国鉄総武線によって両国橋までつながっていたが、蒸気鉄道のため回数も少なく、不便も多かった。電車の便利さを知った地元民の要請もあって、大正七年に船橋――千葉間の軌道敷設の特許を出願した。これより先、大正五年に市川――船橋が開通し、船橋を分岐点として千葉、成田へ路線を延ばす予定だった。その後、計画変更があって分岐点は津田沼となり、大正八年に特許を得、九年に工事開始、翌十年、市制施行の年に船橋――千葉間一七・五キロメートルの営業を開始した。この年、稲毛海岸の納涼台を利用して祝賀会を開いている。京成千葉線には、津田沼――千葉間に幕張、検見川、稲毛、浜海岸(昭和十七年に帝大工学部前、二十六年に黒砂、四十七年にみどり台と改称)、千葉海岸(昭和四十二年に西登戸と改称)、新千葉の各停留所を置いた。なお、京成千葉駅は現在の千葉中央公園のところにあった。
大正10年完成の京成千葉駅
京成千葉線の開通によって、夏は東京方面から内湾の幕張、稲毛、千葉などの海岸に多くの海水浴客や潮干狩客を集めた。当時、国鉄総武線は複線化していたが、蒸気機関車で列車間隔もあり、また、京成千葉線の各駅にくらべて海岸までの距離も遠かった。海水浴場と国鉄線の中間に京成電鉄があり、海水浴客誘致も積極的だったため、東京を始め、各地に海水浴場としての名声は高くなった。そのため、夏の旅客は国鉄に多くの影響を与えた。例えば国鉄稲毛駅では、京成電鉄の開通前と後で七、八月の乗降客は六~一四パーセントも減少した。大正十三年の時刻表では、押上――千葉間は一時間一〇分、五時二〇分より二三時まで、二〇~三〇分間隔で運転したが、車輛が小さく、一輛のため、海水浴シーズンはすし詰状態だった。
千葉――押上間の開通は、千葉――東京間を結合するルートを二本にしたことになる。しかし、京成線の場合、押上が終点であることは千葉市民にとって不便だった。そこで、京成電鉄ではその後に浅草、上野という東京の繁華街に乗り入れをはかり、昭和八年(一九三三)に青砥から分岐した上野線が開通した。昭和十一年の時刻表によれば、上野――千葉間は五時から二三時すぎまで一六分間隔で、一時間三〇分前後で結ばれた。
京成電車 (『京成電鉄五十五年史』)