道路交通

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 千葉市制施行後、千葉市は大発展を遂げた。前記『千葉市誌』によって当時の道路建設の模様を要約すれば次のとおりである。
 千葉市の人口増加による市街地や郊外への発展に対して、道路建設や改良工事は追いつかず、二七線の市営道路予定線もその工事が遅れていた。加うるに大正十二年の関東大震災で、予算は復興費にあてられた。都市計画街路は昭和四年の「都市計画施行案」が可決され、昭和五年に内務省から「都市計画法並に市街地建築物法施行地」に指定されてから具体化した。また、市内道路の路面舗装が昭和七、八年から始まった。市内を通過する国道、県道は昭和七年から舗装されていたが、市道は昭和八年からで、大規模な舗装工事は昭和十一年からすすめられ、都心の主要街路はほとんど舗装が完了した。
 
 自動車が千葉県に登場するのは大正二年(一九一三)である。当時、千葉郡には自動車はなく、『千葉県統計書』によれば、大正四年に乗用自動車が一台、大正五年に二台、大正七年に四台、市制施行の大正十年に七台だった。大正十四年になると千葉郡市を合せて乗用自動車四二台、荷積用三〇台となりかなり増加している。そして、昭和十年(一九三五)には各種自動車合計は四八〇台に達した。しかし、大正、昭和前期においては、自動車は珍しいものであり、貴重品であった。昭和初期における自動車輸送を『管内自動車輸送』(昭和三年、千葉運輸事務所)によってみれば次のとおりである。
 乗合自動車はその九割六分は実用向きのフォードであるが、貸切自動車はフォードのほか、シボレー、スターなどの高級車がみられた。また、大きさは五~一〇人乗りが九割以上で七人乗りが最も多い。当時、千葉県下の主要路線は二一路線あったが、千葉市関係は千葉――東金、千葉――姉ケ崎の二路線がみられるにすぎない。
 貨物自動車は、幕張駅に一台、千葉駅に一七台あり、輸送先は千葉県内には三台で、他は東京方面に野菜、鮮魚、雑貨、澱粉、家具、材木、穀物などを輸送した。一日走行マイルは、三〇~七〇マイル、時速八~一四マイル、一日輸送最大能力は二~七トン、一トン当たり、一マイル平均運賃は、三〇~八〇銭であった。運賃は返り荷の有無によって差がでている。

5―23図 自動車・人力車台数の推移
(T.4~S.12)―千葉市・千葉郡の合計―

 千葉市における乗合自動車の普及について、前記『京成電鉄五十五年史』を資料に、京成乗合自動車を例にみたい。
 京成が自動車を取り入れたのは昭和五年である。それまで、船橋――千葉間を営業中の千葉乗合、千葉――東金間を営業していた両総自動車などを買収して、京成電鉄の傍系として京成乗合自動車(株)を設立した。当時、船橋駅前(起点)――千葉市通町千葉銀行前大島金物店前(終点)間の乗合自動車はフォード九人乗り、レオ・スピード・ワゴン二四人乗りなどである。全線二七キロメートル余、一二区間で一区五銭で、朝七時から夜七時まで、二時間に一本の割で運転し、船橋――千葉間は五〇分かかった。革ぐつをはいた制服の女子車掌はハイカラで評判だった。千葉――東金間は約二六キロメートル、創業は大正四~五年ころといわれ、相乗りタクシー的な小型バス三台で営業を開始した。大正十四年ころには六台のバスがあった。
 京成バスになると、千葉――船橋――市川――東京と次第に接続させ、これは、東金――千葉――東京をバスで結合することとなった。バス業界は、昭和初期から千葉県内、関東地方などで活発になり、京成電鉄も昭和九年にバス直営に踏み切り、千葉営業所を新設した。千葉営業所の船橋――千葉間は六時半~二一時まで約四〇分間隔、千葉――東金間は五時五〇分~一八時まで四〇分間隔で運転した。また、昭和十九年に千葉市街自動車(株)を併合して、市内各線三〇・六キロメートルも開業した。京成バスの独占的色彩が強まり、バス路線網は次第に拡大されていった。

乗合バス


フォード9人乗りバス   (「京成電鉄五十五年史」)