問題の背景

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 大正九年(一九二〇)内務省調査による各地事情レポートによると、千葉県は、茨城、栃木、群馬と並んで、地主・小作の関係円満と評価されている。明治中期ころから、地主を含めた小作人相互の親睦・知識啓発、共同作業、貯蓄を目的とする団体があったことは、既に記した。しかし第一次大戦後の、農業恐慌は、農村のこの伝統的美風を破壊し、対立を激化したとみられる。争議はささいな災害(虫害とか旱害など)を事由にしたが、より大きな原因として、①教育の普及、②生活不安、③小作者心理の変化があげられる。
 地主は祖先以来の労苦による財産だけで、ぜいたくな生活を送り、子弟は東京に遊学、株式投資に走って農事を顧りみなくなった。行詰った農村に愛想をつかして土地を売却、利廻りのよい職につこうとするものもあった。村の上層にあって、指導者としての権威を失いつつあった。
5―88表 昭和前期の田畑の拡張
大正14年における
水田面積畑面積
千葉
210

413
千葉市(842)(1,825)
蘇我170
(併合)
187
(―)
生浜364
(356)
153
(159)
椎名326
(227)
120
(117)
誉田144
(142)
723
(704)
白井245
(243)
586
(498)
更科274
(273)
366
(495)
千城289
(215)
384
(408)
164
(併合)
301
(―)
都賀260
(併合)
456
(―)
検見川134
(併合)
500
(―)
犢橋173
(136)
443
(439)
幕張212
(214)
623
(618)
土気239
(239)
533
(691)

下段( )内は昭和15年統計書による。

※ 参考,明治31年の郡内平均は,水田43%,畑41%であった。昭和15年は水田47.5%,畑60.7%となる。


5―89表 耕地小作化率の変遷
水田の小作化率畑の小作化率
明治42年

大正9年

大正14年

明治42年

大正9年

大正14年

71.666.174.254.753.365.8
51.553.952.250.753.051.1
63.247.256.351.554.359.0
56.681.157.853.654.753.2
57.555.457.347.358.654.3
48.146.248.940.554.244.2
70.078.070.062.571.460.2
64.469.366.862.062.661.6
69.863.359.868.960.451.8
41.243.338.537.143.139.6
49.151.564.653.660.050.8
50.554.447.058.565.966.2
72.733.732.374.333.333.0
27.843.246.135.358.053.1
56.855.454.153.755.854.3

 このような情勢の裏づけとして、大正十一年、松戸高等園芸学校の教授吉田秀臣は、次のように説明している。
「明治三十一年十二月の法律により、日清の傷夷を医し、国防充実のため、やむなき財源として、もと二・五パーセントから、四・五パーセントに引上げられた地租が、ウィルソン軍縮以後も、もとの高率を保つのは、不当に非ずんば横暴である。
 一般金融利率は、三パーセントにすぎない。帝国農会調査によると、所得に対する税負担は、地主四三パーセント、自作二七パーセントであるに較べ、東京における青物商八・五パーセント、貸席業二一パーセント、その他業種平均して一〇パーセントにすぎない。」

 昭和三~五年のころ、米価下落のため、桑園に代えたり、人口流出とも関連して、植林する地主もあった。小作農にしてみると、大正時代は農作物商品化のすう勢にともない、経済観念が向上、生産技術の進歩もあって、経済的に独立する力もついてきた。農業の指導啓発はおろか、小作人との接触をも心がけぬ地主に対し、小作者は生産に従事し、食料供給という国家的使命に貢献しているので、その立場は強固であった。県農会調査による、大正十五年(一九二六)の純小作農比率は、県下で三一パーセント。これら小作農家の最高作反別をみると、千葉郡市は三~四・四町歩で、小作必らずしも貧農でないことがわかる。印旛・香取では七町歩で、主穀・養蚕地域が高い傾向にあった。
5―90表 千葉郡内自小作別農家数の変化
明治41年大正9年大正14年昭和5年昭和15年
農本業
 自作2,0341,5801,8501,7421,834
 自小作2,6573,5593,0632,3612,545
 小作2,5163,4403,7693,4393,981
 総数7,2558,5798,6827,5428,360
農副業
 自作605361163256219
 自小作636250209211159
 小作1,2141,189378878598
 総数2,4741,8007501,345976
総計9,72910,3799,4328,4209,330

5―91表 千葉郡下の階層区分比率(昭和15年)
経営面積別

耕地所有面積別

5反未満10.35反未満41.6
5 反~1町21.85反~1町26.0
1~2町52.5
2~3町16.51~3町19.9
3~5町  2.13~5町  7.0
5町以上  (8戸)5~10町  4.3
10~50町  1.3(89戸)
50町以上  ( 1 戸 )

 また、農業を割に合わぬとし、都会の空気を追うものも多かった。農村にあって、粗衣粗食で平気だったものが、物欲に目を奪われ、労資対立に刺激され、精神の不安を抱くようになった。前掲の吉田教授は、この間の事情につき、こう説明する。
「数年前(大正十一年)の状況では、大都会、工業都市周辺に限り初発している。交通路沿いに拡大する。千葉県では野田、銚子、流山などが工業都市だが、特に発展した地方はない。東葛飾、千葉郡などは労働力需要の激増から、誘発するように見えるが、園芸的作物を多く生産し、畑地収入が都会労働者の収益に見合っていられるので、争議はみられない。」

 『読売新聞』千葉版、昭和三年五月二十四日付紙面には、この二カ年間に、争議による小作地返還事例は、千葉郡にない。これは所有権移動、収支償わず、経営方法の変動などの事態が、ほとんど無かったことを物語る資料となろう。
 続いて、昭和四年六月二十一日の記事では、「最近は都市近郊で、住宅地やゴルフ場としての買収があるため、土地引上げが、小作権補償要求と結びつくのが特長となった。昭和三年中に四〇件、関係地主二八七人、小作人九四六人、耕地は九二二町にまたがったが、全然無かったのは千葉と海上郡であった。」と伝えている。
 経済思想の発達の結果、年雇いの農業労働者は、農閑の折食費の稼ぎにもならぬので、これを廃して日雇いとし、農繁には高い日給で働き、農閑期には他方面で労賃を得るような、労働合理化が考えられるようになった。住込でなく通勤に変わり、需給と待遇が、円滑に向上したという、社会的背景があった。
 内務省松下調査官のレポートによる県内の争議発生経過は次のようであった。
 有名な八街開墾地で、地主の中核であった大鐘得三郎関係土地の明渡し請求と、仮処分に対する異議事件は、大正十五年五月、千葉地裁で和解となり、これを最終に三十余件すべて一段落した。当局が相互の誤解が多く、白紙に返し公平な立場から、説得し融合せしむることに、努めた結果であった。大正十三年、八街町に日本農民組合支所が設けられ、争議が散発したのが発祥で、十四年には印旛郡下で、騒擾罪で下獄するなど尖鋭化したが、指導者を失ったため、十五年には争議らしいものは無かった。昭和二年から再び台頭した。単なる小作料の軽減から永久減免に、更に耕作権確立という方向をとったが、昭和四年四月の弾圧により、幹部組合員二十余名が検挙されたが、次第に深刻さを増してきた。
 このとき、千城村で組織脱退のことがあった。
 昭和二年八月二十六日、川野辺開墾では三年来の旱害と、まゆ価暴落から、極度に生活が圧迫されたため、小作人組合をつくり、地主に四割の削減(反当たり八円を五円に)を要求した。このころ、園生のある地主は反当たり六円から八円に値上げを表明して、応ぜねば植木を移植すると通告したので、一〇名位の草野農民党が組織化された。これは千葉地方最初のもので、日農県連でも応援の態度を決め、耕作地反当たり三円の割で闘争資金を積立てることにした。背後に労農党も動いて、黒田寿男が弁護に参加したり、長生郡東村からのオルグの臨地住込みがあった。結果は明確ではないが、地主側は譲らなかったものらしい。和泉地区にも飛び火したらしいが詳細はわからない。
 また、大正五年九月末現在の『土地所有者名鑑』により、町村単位の土地所有階層を区分した。なお、昭和九年度『房総年鑑』により、多額納税者の分布をみると、県下二百名中一五名が、現市域内に居住するものであった。
5―92表 土地所有者階層別比率(大正5年9月末現在)
所有者総数

1町歩未満

1町歩~3町

3町歩以上

左記の内耕地を
多く所有する人数
備考
5町以上
所有
10町以上20町以上
千葉1,648662681143秋元与惣兵衛 44町
紅谷茂三郎 26町
検見川1,01683152216
幕張84276195106
犢橋594622581883斎藤弥一郎 28町
川口中丸 27町
都賀5075432142855石橋善三郎 42町
豊田啓次郎 32町
4384338191331
千城500563212106
更科77067267541
白井795662410105
誉田59083116831今井喜代太 36町
蘇我57069238841
椎名34363271064
生浜625682210821

1 比率は四捨五入して簡単に示した。
2 原書は千葉郡下のみで,土気町は示されない。

(『土地所有者名鑑』)


 また、小作者に対し積極的に助成する自作農創設維持資金貸付規則が、大正十五年六月県令で公布された。二年以上居住、三分の一の自己負担で将来の見込確実という条件が必要であった。二五年払い、三・五パーセントの利子であった。
 申請者七一五名中五四七名が審査を通過、資金三七万円を奨励融資した。田約百町歩、畑四〇町歩、宅地五町二反に及ぶ。千葉郡では一件、水田一・八反、金額五百円で、当時土地を売る地主の少ないことが原因とされた。
 『千葉毎日新聞』昭和五年三月五日付記事によると、昭和四年度分自作農創設資金は三三万円で、希望者は県下各郡にわたり、五一四名、七七万円に達したので、県で審議の上、二六一人(一〇六カ村)に配分が決まった。千葉郡内は一件(千百円)と紹介されている。
 事例として掲げた川野辺開墾は、現在の若松町中広地区にあたる。草分けは明治四十四年(一九一一)で、日露戦役後の不況につまづいた中流農家が、発起一転して再生を図ったものが多い。初めは二・四町歩平均から、戸数の増加に従い零細化し、〇・七町歩位になったが、戦後昭和二十二年(一九四七)に、地主から山林解放を受け、いく分か余裕をもつようになった。途中で脱退したという千城村北小倉開墾は、埼玉県や印旛郡からの入植で、大正初期に始まった。この地区に隣接して、もと採草入会地を開発した四分部落がある。明治三十九年のことで、両者で約三〇戸であった。都賀村に属した園生、草野開墾は、大正初期からの開発で、八街からの移住、及び犢橋から入植したものが居住した。これらの台地は、地下水位が低く、風吹けば黄塵万丈の地で、生産性はかなり低かった。今、市街化区域に指定され、宅地造成が進行しつつある。内陸工業や県スポーツセンター、公団住宅が建ち並んでいる景観からは、昔時の争議を、とても偲ぶことができない。