市民生活の近代化

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 大正~昭和前期の市民生活は、明治期の文明開化、西洋化というよりも生活の近代化にむかってたゆみなく進んだ。経済的には、第一次大戦中の好況、戦後の反動的不況、それにつづく昭和期の金融恐慌や世界恐慌に襲われて、市民生活の近代化は大きくゆれうごいた。しかし生活の各分野は進歩充実した。これは明治期の日露戦争から昭和期の満州事変まで、約二五年以上も平和の時期がつづいたからであった。この間に第一次大戦に参戦したが、かえって生活の近代化を進める条件にもなった。
 市民生活の基礎となっている電燈・ガス・上水道・下水道についてみれば、大正~昭和前期は近代化の始まりであった。明治三十九年(一九〇六)に東京電燈株式会社(前身は千葉電燈株式会社)が開業して、火力発電によって千葉市街に電燈をともした。この会社の千葉支社が千葉市と付近の町村の電燈を管理していたが、昭和七年(一九三二)に燈火用の電燈を利用していた戸数は四万七四一七戸で、電燈数は一五万八千燈であった。このうち千葉市内のみでは戸数一万一千戸で四万五千燈を契約していた。一戸当たり四燈を使用していた。このころは家庭電気器具はほとんど使用していなかった。扇風機が市内でぜいたく品として扱われ、三〇四台が登録されていた。家庭の燃料ガスは千葉ガス株式会社が供給していた。この会社は明治四十五年(一九一二)に創立し、大正七年(一九一八)に千葉ガス工業株式会社と改称し、石炭ガスを供給した。ガスを使用していた戸数は昭和八年に市内で一、二二二戸だけであった。残りの市内の約九千戸は薪炭で調理したり、暖房をとっていた。市街の家庭が井戸水の使用から上水道の使用に移ったのは昭和十一年(一九三六)からであった。県営上水道が昭和九年に着工し、都川沿岸の地下水を配水する千葉水源系統が同十一年に完成した。ほかの京葉地帯の三市七町一村に配水する江戸川水源系統の上水道はおくれて昭和十六年に完成した。千葉市の下水道事業はすでに「千葉市の都市的発展」においてのべたように、市街地の中心商店街を含む地区のみが昭和十一年に着工されて同十三年に完成した。その他の地区は戦後まで延期された。千葉市の下水道が不完全であり、市民の非難の的であったことは既述のとおりである。
 市内の交通・通信の近代化は市民生活の重要な手段であった。千葉市に電話が開通したのは明治四十三年(一九一〇)であった。当時の加入者はわずかに二百名であった。千葉電話局が本町二丁目に加入者の増加のために昭和六年に建設され、昭和九年に電話は一、一五七個になった。電話一個当たりの通話度数は一日平均一〇回であった。当時東京では一日一個当たりの通話度数は一八回であった。市街の交通機関は人力車、自動車・乗合馬車と乗合バスであった。人力車は明治期から増加して、大正二年(一九一三)に約二百台、大正期の半ばころから減少して大正十四年に一八三台、昭和八年に一三〇台であった。千葉市は医者や芸妓が人力車を愛用したので人力車はながく使用され、人力車宿などもあって客を待っていた。自動車は大正二年の県統計にはなかった。大正十四年に乗用車が二七台、トラックが一一台であった。昭和十二年になると乗用車一三九台になり、市川市の四九台や船橋市の五八台よりはるかに多くなった。また千葉市のトラックは八七台になった。しかし自家用車としては、自転車で昭和八年には三、八六一台、リヤカーは四七三台が使用されていた。荷物の輸送は牛馬車が主で同年には六百台もあった。千葉市の街路は舗装されず、道幅がせまいので、雨の日は自動車が通ると泥をとばして人々に迷惑をかけた。街路の舗装は昭和七――八年から始まり、同十一年までに中心市街の街路は舗装することができた。市民の足としては乗合馬車が早くからあったが、乗合バスに変わるのは大正十四年に千葉市街自動車株式会社が創立され、更に昭和五年に京成乗合自動車株式会社が創立されてからであった。前者は国鉄千葉駅・本千葉駅と京成千葉駅から海岸・歩兵学校・医大病院を結び、しだいにバス一〇台で市内の主な街路を運転した。後者は京成千葉駅から東金町と市川町に運転した。これらの乗合バスは道路が悪いので運転は大変に苦労した。このバスもないところでは、荷馬車か自転車かあるいは徒歩で村から市街まで歩いた。