市民の祭り

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 大正~昭和前期に市民生活は近代化をたどったとはいうものの、千葉市は人口が急増するような都市の変化はなかった。千葉市は相も変わらず役人の町、軍隊の町、商人の町――であり、消費都市にとどまり、生産都市に変化しなかった。まわりの農村・漁村にも中心市街に大きな変化を与えるようなことは発生しなかった。市民生活に急変はなくて安定して毎年同じような生活のしかたをくりかえしていた。市民生活は年中行事にしたがい、四季の移り変わりにしたがって、一年間の生活を楽しんでいた。市街には神社・寺院の祭礼や縁市、学校の卒業・入学、軍隊の除隊・入営などが年中行事の骨組となっていた。これに対して市街地近郊の四季の変化にともなう自然レクリエーションが年中行事の肉づけをしていた。
 市街地では毎月一定の日に開かれる縁日があった。一日と巳の日には片町(現港町)の厳島神社の縁日であり、漁業者や花柳界に信者が多く、手踊りの余興が名物であった。十日には千葉神社境内の金刀比羅社の縁日で本町通りに十日市または金刀比羅市が開かれた。二十日には吾妻町りに二十日市が開かれ、二十二日には妙見市が千葉神社境内に開かれた。また二十七日と二十八日の両日には吾妻町不動尊の縁日で不動尊市といって吾妻町に開き、市街の最大の規模であり、夜店が多くでてにぎやかであった。これらの縁市の日にはさまって、十二日には東漸寺(市場町)の薬師様の縁日があり、手踊りも催され、二十一日に千葉寺大師の縁日、二十四日に龍蔵神社(千葉寺に隣接)の縁日であり、いずれも参詣者でにぎわった。
 年中行事として大正~昭和前期ににぎやかに行われたものをあげれば次のものがある。二月に稲荷神社(今井町)の初午は茶番や手踊りが催された。四月には猪鼻台の神明社の祭礼が桜の花見と同じころになって猪鼻台は人出が多かった。つづいて四月二十九日から五月一日までは千葉招魂祭が千葉神社の境内で県・市・神社の共催で行われ、軍隊・学校・官庁・諸団体が参拝した。境内ではこの三日間にさまざまの催しものが行われた。七月には十四日に市街の横町の八坂神社の祭礼は夕涼みがてらの人出が多かった。また十五日には稲毛町の浅間神社の例祭が盛大に行われた。この日は近郷の七歳以下の子供は必ず参拝する習慣があり、露店が数百軒もならんだ。十七日・十八日は千葉寺町の龍蔵神社の祭礼であった。これはむかしから千葉寺祭りといい、盆踊りがさかんであった。中世の千葉笑いの古事はこの祭礼に行われた風習であった。八月には、一日から三日に検見川町の八坂神社の例祭がにぎやかに行われ、特に神輿かつぎが名高かった。また十六日から二十二日まで千葉神社の祭礼で「千葉のダラダラ祭」といわれる。九月には登渡神社(登戸町)の祭礼が五日にあった。また二百十日前後には川施餓鬼が寺院によってとり行われた。日蓮宗の本円寺、本敬寺と真言宗の寺院が別々に行なった。まだ残暑があるころ、寒川沖合に出て涼味を満喫しながら、水難者の霊魂に祈った。十月にはお会式が十二日ころ本円寺・本敬寺でとり行われた。また九日には稲荷神社の祭礼があり、その手踊・茶番のにぎやかさは市街祭礼の名物であった。十一月には酉の日に千葉遊廓内の大鷲神社の祭礼で、当日は熊手その他の縁起物を商う露店が多くならび、その人出もまた多かった。十二月には歳の市が市場町から本町にかけて開かれた。この神社・寺院を中心とする祭礼・縁日とともにキリスト教の教会を中心とする行事にも市民の参加が多くなっていた。昭和七年(一九三二)の信者数は、天主公教聖マリア教会(市場町)に一七〇名、日本同盟キリスト協会千葉教会(通町)に四一七名、日本キリスト教会千葉教会(市場町)に三九一名、東洋宣教会千葉ホーリィネス教会(長洲町)に三二名、日本聖公会千葉講義所に一五三名、日本メソヂスト教会千葉教会(本町一丁目)に五名、救世軍千葉小隊(院内町)に四二名といわれた。

浅間神社の例祭