市民のレクリエーション

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 大正~昭和前期の千葉市民のレクリエーションは市の内外に設定されていた。千葉八景はその一つであった。むかしの千葉八景(文久年間一八六一―一八六三年)といい伝えられたものに次の土地をあげている。綿打池の薄霞、千葉寺の晴花、亀ケ岡の風螢、君待橋の涼帆、猪鼻山の望月、千葉神社の夕楓、羽衣松の夜雨、登渡神社の朝雪であった。大正~昭和期になると、千葉八景は猪鼻台の秋月、千葉寺の晩鐘、大橋の晴嵐、羽衣松の夜雨、袖ケ浦の帰帆、東台の暮雪、舟田池の落雁、登戸浦の夕照などがあげられていた。
 このような俳人的な自然レクリエーションに対して、市民生活に年中行事のようにとりいれられたものはすくなくはない。春風が暖くなる三月から大潮ごとに潮干狩がにぎわった。市民のみならず、東京や近郷の人々が海岸の干潟で貝拾いをした。このありさまを歌人佐々木信綱が詠んでいる。
 千葉の海の 沖の遠浅潮ひきて
  貝拾ふ子の かづぞ知られぬ

稲毛海岸の潮干狩

 四月には桜の名所として花信一度伝わると、千葉寺、亥鼻公園、都川畔や坂尾(旧千城村)などに花見の人が訪れた。坂尾は栄福寺の門前並木に約四百本も「よしのざくら」が咲いていた。六月には螢狩りに人々はでかけた。医学部下から矢作にかけての水田に大型の螢が多かった。千葉寺付近も螢が多かった。七月十日海岸一帯の浜開きで海水浴が始まった。海岸には脱衣場がならび、千葉郵便局は季節自動電話を海岸に新設し、汽車、電車の発着につれて海岸一帯に海水浴客が集まった。海岸には京成千葉海岸駅に近く納涼台の龍宮があった。納涼台は長さ七〇間も海上に桟橋をつきだし、この先端の納涼台は建坪三百坪もあった。特に東京からの日帰り客が多く、大正期の末期には一日、数百人であったが、昭和期には日曜に一万、ふつうの日でも三千人もあった。中秋の九月になると聴虫を楽しんだ。すずむし・まつむし・くつわむしなどが多く、医学部・東高等学校の土堤や千葉寺・千葉海岸の草むらや土堤がよい場所であった。月明の下に秋風がすぎ、その風に和して虫の鳴く音が降りそそぐようであった。九月中旬~十月中旬にかけて茸狩がよろこばれた。旧千城村から旧誉田村にかけての松林は、野田・八街とともに県下三名所であった。秋の尾花、萩の下葉をふみしだき、松茸を探し出して歓声をあげた。千葉市民は月見が好きだった。その名所は猪鼻城趾、登戸高台、千葉海岸などに行く人が多かった。月明の夜、猪鼻台に立てば、市街は脚下にいらかをならべ、袖ケ浦は淡く月光を漂わしていた。寂光千里、しゅうしゅうたる秋風、千葉氏三百年の盛衰は今いずこにかある。松柏はものを言わず、誰とともにか昔を語らんと、むかしから人々は詩歌によみこんでいた。市民生活には都川川口や寒川・稲毛沖の舟遊びがしみこんでいた。舟遊びは釣魚によし、納涼によし観月にもよしであった。夏にはきす、秋にはあいなめ・あじ・黒だい・せいご・はぜ・冬にはかれいなどの釣人が多かった。都川の川口だけでも貸舟屋が六軒もあった。

千葉海岸の納涼台

 このような歴史的伝統がある祭礼・縁日や自然レクリエーションは昭和前期の後半には、市民生活の中では縮少しなければならなかった。昭和六年の満州事変から戦争は拡大し、昭和十六年の太平洋戦争への突入によって市民生活は大きく変わっていった。太平洋戦争後の昭和後期になると、市民生活の年中行事や自然レクリエーションは消滅し始めた。伝統と習慣は敗戦後の市民の価値観の急変によって消失し、市民がこれを手放した。また千葉市が消費都市から生産都市に変化して、自然レクリエーションの基礎である自然を汚染し、自然を破壊した。市民は伝統を失い、新しく出現した千葉市発展の力が自然を汚染し、破壊してしまってから、市民の失ったものは生活を豊かにするものであったし、破壊したものは市民に生命を与え、生活を躍動させるものであったということを知った。