第一項 大正の教育

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 大正元年(一九一二)第三次桂内閣が成立した時、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らの主唱した「憲政擁護閥族打破」の運動は、わずか五〇日でこの内閣を崩壊させた。世にいう「大正の政変」第一次護憲運動であるが、この運動成功の基底には民衆の支持があったといわれる。すなわち、当時の国民の政治的自覚が相当に高められていたのである。これは「学制」に始まる、普通教育の成果であるといっても、過言であるまい。
 加えて、第一次世界大戦後、世界的に、英米のデモクラシー思想が広まり、さらに、ロシア革命の影響もあって、大正デモクラシーが一世を風靡するに至った。自由、教養、個人の尊重など、古来、わが国の思想界にはみられなかった「ハイカラ」な言葉が、「ハイカラ」な風俗、習慣をともなって流行するのである。また、日露戦争後の工業の繁栄は、経済界の要求として、さまざまな人間像を教育界に求めてくることとなるのである。
 大正六年(一九一七)九月、政府は、以前の高等教育会議を廃止、かわって、臨時教育会議を発足させた。臨時教育会議は第一次世界大戦後のわが国の社会にあった教育問題全般にわたって、調査、検討を加え、内閣総理大臣に答申している。しかも、その答申が着実に実施されたところに、この会議の特色があるといわれている。
 幼稚園教育については、大正十五年(一九二六)四月、幼稚園令施行規則を公布するが、この施行規則を受けて、宗教団体を中心に、次第に幼稚園が設立されていくこととなる。
 初等教育に関しては、義務教育の年限を二年延長し、高等科二年までを義務教育とするよう討議がなされるが、まだその時期に至っていないが、将来は延長すべきであるとの希望を表明している。教育財政については、大正七年三月、市町村義務教育国庫負担法が成立、市町村立学校教員の給料の半額を国が負担することになって、長く市町村を悩まし続けた、過重な教育財政の軽減を図っている。
 臨時教育会議が重点を置いたのは初等教育よりも、それ以後の教育制度の改革であった。初等教育は一応、明治年間に整備されていたので、臨時教育会議は、時代の要請もあって、答申を急いだ。これを受けて、大正七~八年にかけて、中学校令、高等女学校令、大学令の改正、制定がなされた。
 中学校、高等女学校については、入学希望者の増加現象から、学校の増設、一学校当たりの定員数の増加を図っている。県立千葉中学校では明治末の六百人を、大正三年に七百人、大正十一年に千人、と定員を増している。県立千葉高等女学校定員も、大正十二年に六百人、大正十五年に七五〇人としている。もっとも、大正十五年の増員は修業年限を五年としたことによるが、中等教育の一層の充実がなされたといえよう。
 千葉師範学校では、大正十四年、専攻科が設けられ、本科一部の修業年限を五年と定め、教員資質の向上が図られている。帝国大学令のほかに、大学令が公布されたのによって、大正十二年、千葉医学専門学校は千葉医科大学に昇格しており、その前年に、県立千葉病院が文部省に移管されて、同大学附属病院となって、医科大学としての偉容を整えていった。
 ところで、さきにも述べたように、わが国の学校制度は明治三十年代ころから次第に整備され、明治四十年、小学校の義務教育年限が六年に延長したため、小学校六年卒業後、男子は高等科、あるいは中学校、実業学校へ進学、女子は高等女学校に進むわけであるが、明治末年の小学校の情況について、明治四十五年五月の『房総教育』は「現時の教育の概要」の中で、
 設備の完成を期すると共に、内容の改善を図ることも、亦近時大に力を注ぎ、特に児童訓練上に就きては、地方的風習に鑑み、礼節に爛(な)れしめ、協同一致の念を厚うし、勤労の気風を振起せしむるの三要点に注意し、教授に於ては、基礎的智識を確実にし、児童の個性に留意して適当の方法を講じ、専ら自己活動の習慣を養ひ、学術応用に自在ならしめんことを努めり。要するに現時に於ける本県の小学校教育は、其の普及及び設備の奨励時代を過ぎて、内容改善の時代に進みつつありと謂ふべし。

と述べて、明治末年に、本県の教育は教育内容充実の時代に入っていたことを示している。そればかりでなく、明治末年に、基礎学力の充実、個性の伸張、自学の習慣の養成、応用力の養成が実践されていた事実は注目に値する。
 大正期に入ると、ますます学力充実のための方策が思考され、学校内に教科別研究会が作られ、職員の研修にも力が注がれた。また、県及び郡教育会が中心となって、県内、郡内の一斉学力テストが実施されている。テスト内容の詳細はわからないが、稲毛小学校の記録によれば、
 大正二年、成績は郡内二十六校中第三位。
 大正七年、尋常六年児童成績優良証を受ける。
 大正十三年、郡内二十一校中三位。
 大正十四年、郡内二十一校中一位。

(『稲毛小学校創立一〇〇周年記念誌』)


とあって、各学校は一斉学力テストで優秀な成績をおさめようと競いあったものと思われる。明治四十三年から大正十二年まで、現在の千城小学校に勤務した海老原時敏は、
 当時は学力向上が何よりで、教科は国語に重点を置き、詰込みで競争したものです。特に、六年生には力を注ぎ、中学入学のための補習をやりました。ボーナス五円か八円で、不平もいわず、夕方教科書の文字が見えなくなるまで、やったものです。千城小学校では、大正七年に電燈が引かれましたが、電燈をつけての補習は禁止でした。しかも当時は、六年で中学合格はむずかしく、高等科一年か二年で合格したようです。たしか、大正六年でしたか、千葉中学に六人受験して、三人合格したときは、それは嬉しかったものです。

(海老原時敏談)


と述懐している。大正期に、新しい教育思想が導入され、「自学」が叫ばれているが、中学入試の前には、詰込み教育もやむを得なかったようで、今日の受験競争と同じ激烈さがあったと思われる。当時の千城小学校は、郡内のいわゆる名門校で、高等科へは、誉田、白井、都方面からの通学者もあったという。しかし、各学校は、学力向上の名のもとに、詰込み教育に終始していたわけではない。現在、土気地区で民生委員、自治会などの役員として活躍している鈴木寛(明治四十四年、土気小学校入学)は、「当時中学への進学などは思いもよらず、尋常科だけで終わるのではないかと思っていたが、それだけは辛うじて免れて、高等科に進学することができた。」(『土気小学校創立一〇〇年記念誌』)と述べ、授業中、友だちと話しこんで耳を引張られ、栗を教室に持ちこんで注意されたことなどをなつかしい思い出として語っているが、当時、中学進学者はごく少数で大多数の生徒は勉強より遊びに夢中であったようである。この土気小学校でも、六年生の進学希望者に課外授業をしていた。
 大正の初め、全国平均で義務教育児童の就学率は九八パーセントに達している。大正五年度、『千葉町事務報告』によると、就学督促がすすみ千葉町立各小学校に在学している児童は三、七七一名中、就学猶予者は一名、同じく免除者は三名で「不就学者、一人トス」とあって、統計上の就学率は百パーセントに近くなっているが、貧困のため特別学級に編入された児童が七七人あって、この生徒たちは毎日出席を要しない学級に在籍していたのであろう。大正五年度『千葉町事務報告』は、更に「就学児童ノ長期欠席ニ対シテハ孜々トシテ出席ノ督励ニ努ムルモ常ニ七十人ヲ上下シツツアリ)と記している。この長期欠席者の中に、特別学級の者が含まれているか否かは不明であるが、長期欠席者が、千葉町で、毎日平均七〇名を前後しており、全町、四五学級であるので、各学級一~二名の長期欠席児童があったとみられ、学校は、その督促に努めている。大正五年度に、父兄三七六名を呼び出して、出席を督促している。この長期欠席は大正年間を通じてみられ、大正十一年には全市で百名前後と報告されている。「就学率を百パーセントにする事」は国からの至上命令であったので、数字の上では、確かに近くなっているが、他面、特別学級、長期欠席者があったことは忘れてはなるまい。ただ、千葉市においては、出席を奨めただけではなく、市教育会は、
 一、千葉市教育会総則第三条第一号(児童生徒ノ保護及奨励)ノ目的ヲ達スルタメ、千葉市千葉尋常高等小学校児童保護会ヲ設ケ各部ニ支会ヲ置キ左ノ事業ヲ行フ
   イ、学用品ノ供給給与
   ロ、児童用図書器具機械ノ補充
   ハ、貧困児童ヘノ補充
   ニ、其ノ他児童教育上適当ト認メタル事項
を主な内容とする、児童保護規程を設け、大正十四年度の予算で、児童保護会に、一、四八五円を支出している。北海道、樺太方面へ一名、宇都宮へ一名、水戸へ一名、東京へ三名、教育視察に行った費用の合計が百円であった時代に、一、四八五円は、まさに巨額であったといえよう。この金額の何割が、貧困児童の保護にまわされたかは不明であるが、当時の市内教育関係者の話を総合すると、学用品、病気治療費、昼食費など相当の金額が支出された様子である(大正十四年度、市費の学用品、被服費は三五五円)。
 義務教育六年の実施、千葉町の人口の増加等によって、就学児童は次第に増加し、明治末年には特別教室を普通教育に使用のやむなきに至っていた。特に大正六年九月三十日から十月一日にかけての暴風雨と高潮によって、第二、第四尋常小学校の校舎の一部が倒壊(十月一日より二十日まで休校)したため遂に二部授業に追いこまれることとなった。早急に学校を建設すべしとの要望が町内各層から起るが、町財政の不足と、校舎の建設位置をめぐっての対立から、なかなか建設に着手できなかった。
 町会議員の中から、現在の町内四校は町の規模からみて多すぎて、経費の無駄使いではないか、また鼠川の近くの第四尋常小学校と、都川のほとりにある第三尋常小学校は地盤が弱く、たえず水害の危険があり、しかも、両校の距離は近いので、両校を合併し、その中間に一校を新築しようとの意見が出るし、その一方では元の場所に建設しよう、との説もあって、新築事業は容易に進行しなかった。大正十年、千葉町の市政施行にともない、ようやく校舎の建設に意見の一致をみて、大正十一年度一五万円の市債発行が認められ、総事業費二十万六千八百余円(大正十一年度、市事務報告では一五万円であるが、(自大正十一年至大正十二年)議事関係文書綴では六万三千円の起債を市議会で議決するが、大正十二年三月二十六日、千葉県知事によって、五万円に改められている)で校舎の新築、増築にあたっている。その内訳は五―九三表のように、総建坪一、五九四坪余、教室四三に及ぶ大事業であるが、このため、第四部(現登戸小学校)及び黒砂分校を除くほか、全市の学級で二部授業が実施され、児童の不便は計りしれない程であった。しかし、この事業が完成すれば、多年にわたる二部授業が解消される予定であった。しかし、大正十二年九月一日の関東大震災は、小学校に大きな被害を与えることになった。特に第四部である現登戸小学校の校舎が倒壊したのである。当時第四部長であった市原一郎は、昭和三十八年三月十六日の『登戸タイムス』で次のようにいっている。
 午前十一時五十五分、グラグラ……と地震だ、今まで地震で外へ出たことのない先生方も危険を感じて外へ飛び出すような激しい地震である。……私共は皆校庭の立木や電柱にしがみつき、不安な気持で様子を見守った(なかなか建物は倒れるものではない)。しばらくして、校庭の各所から地下水が四、五十センチも高く噴水のように噴きあげた。と同時に校庭の一部が一メートル近くも陥没し旧校舎全部が土煙をあげて倒壊した。

 生徒たちは残った校舎と、第一部及び登戸二丁目の天理教会と三カ所に分散して授業することになるのである。地震は人々に動揺を与えたが、都賀小学校長元吉亮は、休業をすすめる職員に「村内、学校にも、ほとんど取上げる程の被害はない。……兎角このような天災の際には、流言飛語が乱れ飛び人心不安になる。こういう時に吾々まで動揺してはいけない。……余震が襲う事であろうから校舎内での授業は危険である。」神社の森を利用しての授業を提案して、「この森を利用して子供達を集め、子どもをとおして村の方々の動揺を押さえなくてはならない」(『都賀小学校95周年記念誌』長谷部吉春記)と述べ、以後しばらく都賀小学校では青空教室が続くが、この元吉校長のほかにも、多くの教職員が人心の安定に尽したと思われる。震災の結果東京方面からの避災者も多く、各学校は定員に関係なく、児童生徒の入学を認めている。千葉高等女学校では十月末までに約百名の入学を認め、千城尋常高等小学校でも二一名の児童が避難、入学している。
5―93表 校舎,校地の拡張工事
(イ)増築建坪内訳
建坪備考
第1部245坪      6教室増築
第2部214坪2合5勺  6教室増築
第3部1,024坪8合3勺  28教室新築
第4部110坪  8勺  3教室増築
合計1,594坪1合6勺  43教室

(大正11年『千葉市事務報告』)


(ロ)校地拡張面積
面積
第1部150坪
第4部  48坪
合計198坪

(大正11年『千葉市事務報告』)