大正八年四月、手塚岸衛は附属小学校主事に就任し、哲学・思想のない教育は空虚であるとの信念に立ち、「すくすく伸びて天を衝くポプラの姿にあやかって、」(前掲書)白楊会と呼ぶ哲学講習会を結成した。そして、彼が京都府視学時代、「軒を並べて、住んだ」(前掲書)篠原助市教授を招いて、哲学講習会などを開催している。第一回目の大正八年八月の講習会(四日間)には八百人の多数が参加している。ここに、哲学・思想を求めた、大正期の時代傾向を敏感に受けとめ、かつ、果敢に実行した手塚の面目が見えよう。篠原教授はナトルプの研究者であり、わが国へナトルプを紹介した人として知られている。手塚自身、「自由教育は批判哲学の立場から教育問題を解かうとする小さな試みである。」(前掲書)と述べて、ナトルプの哲学を基礎に、自由教育の実践活動に入ったといえよう(ナトルプは新カント派に属する哲学者で、観念論という言葉を理想主義と表現している。)。
自由教育は深く批判哲学に泉づみ、遠く理想主義の流を汲み、個人的に淵しては人格価値の実現となり、社会的に湛へては文化国家の思潮となり、方法的には自学と自治の帆を掲げて自覚と呼び自律と名づくる自由によって、常に達しつつしかも永久に達せられざる自由の港へと教育を舟漕ぐものである。
右の一文は『自由教育真義』の巻頭言であるが、自由教育の核心を語り尽している。カントの批判哲学、ナトルプの理想主義の立場に立って、人格の価値、文化国家(ナトルプが提唱している。)を教育の目的と定め、方法として、自学と自治によると規定、このような教育を自由教育と呼ぶ。と宣言している。そして、教育の永遠性を強調したのである。
自由教育の発端となった学級自治会の組織について、大正十一年六月の第三回自由教育公開研究会会録で、次のように説明している。
児童自らが自らを治めてゆくといふ貴いあらはれの集りがこの自治会である。この会が私の学校に出来上ったのは大正八年九月と記憶してゐる。それ以前、児童自らがどうかして自分の力で道徳の実践をしようとする努力から、日課を定めたり、反省の工夫をしてみたり、忠告会を開いたりしていたが、大正八年九月頃から児童が集って、何か会の様なものを作ってみたいという希望があったので、それに先生方が相談相手になって出来上ったのが要覧にある様な組織になったのである。つまり、形式から内容になったのではなく、内容が充実して形式が自然に出来上ったのである。
三年後の文章で、多少信頼性が気がかりであるが、手塚は生徒の動きを巧みにとらえ、この職員たち(一七名)なら、実現可能と判断して、自由教育に踏み出していったらしい。
たまたま、大正九年、全国師範学校主事会が東京で開かれ、各主事の経験を述べる機会が与えられ、手塚は七~八分の短い時間、附属小学校における新しい試みを発表した。ところが、九月二十九日付『東京日々新聞』に、内容が報道され、『大阪毎日新聞』にも、「自由教育の実験」と題し、全国に紹介された。こうして「自由教育」は全国の問題として、展開していくのである。
ところで、手塚の主張した自由は今日的意味における、基本的人権中の自由権の意味や勝手気ままではなく、「規範に従って行動したとき、そこに自由はあり、そこに人格の自由が存する。」(前掲書)また、孔子の言葉を引用、「七十ニシテ、己ノ欲スル所ニ従ッテ距(のり)ヲ踰(こえ)ズ」の心境こそ、「孔子は道徳的生活に於ける自由の極致に達したもので」(前掲書)と評価し、人間の規範に従うことが自由であるとした。後年、手塚はふりかえって、自由教育が上に「自由」の文字をかぶせたことで、誤解をうけたと述懐したそうである。教育における、自学の考え方は、明治四十年ころから叫ばれているが、手塚はこれを単独自学、協同自学に分け、協同自学を更に、相互自学と全級自学に分類、児童を常に受身の立場ではなく、働きかけの立場におけと主張し、授業に際し、教師は何を教えるのかではなく、「いかに学ばしめるかに苦心せよ。」(前掲書)そして、学ぶことは自己創造と強調した。手塚は形式的授業を激しく非難し、テストは無意味で、形式的通知票は無用で、年二回保護者との話し合いを重視した(学籍簿には甲・乙・丙で記入)。しかし、実際には、生徒の学習が一年、二年先きに進み、標準的テストは意味がなく、したがって成績通知票も無意味になったようである。その他、実利主義、社会主義、芸術教育主義を批判し、「自由教育」が個人主義で日本の国体に背くとの批判には、「曲解で一笑に附し去ってよかろう」と述べ、「忠義、孝道、愛国心はわが国民道徳として、世界に誇るに足る文化価値」(前掲書)を有するもので、「この点に留意すべきは、わが国教育の最重点」(前掲書)と結んでいる。要するに、手塚もやはり大正期の生んだ教育家であり、国家目的にまで立ち入って、新しい人間像を追求したというより、その方法の改良に留まったと考えられる。しかし、当時の国家体制を思うとき、彼が文字に表現でき得る限界を自覚していたふしもうかがえる。
附属小学校の「自由・自治」は徹底したものであった。従来の一五分間の休憩時間を一〇分に短縮して、四〇分をねん出、「自由学習時」と名付け、学校所有の書籍、標本、掛図、テーブル、黒板等を常時児童が使用できる体制とし、自由講座を設け、生花、茶の湯、按摩、英語、作詞、作曲等を、一部は外部から講師を招いて教授した。大正十年四月、本校を見学した、秋田県の教員飯坂兵治は「子供の国、児童の楽園」(『自由教育』第一号)と表現、「自由教育」を絶賛している。自由教育の結果、生徒の学力の伸度は著しく、第三回自由教育公開研究会会録によると、六月の研究会当日、尋常科二年男子の算術では尋常科三年生用教科書三四ページを学習しており、一年のときすでに、一、二年の学習は終了、二年生になると、三年の教材に入り、六月には三四ページに進んでいた。この研究授業時に一律三四ページを学習するのではなく、四年の学習をする者四名、三年三学期の学習をする者九名、三年二学期の学習をする者二六名、三年一学期の学習をする者○名の状態で、生徒は自作の問題を解き、先生は机の間を廻って、生徒の質問に答え、普通の授業風景と全く異なるものであった。参観者の中からは、附属小学校という恵まれた環境ゆえ可能であるなどの批判が寄せられるが、「我らの経験によれば、十数学級の学校ならば、早きは三カ月、あるいは半年、遅くも一年にして県下最良の児童の教育実践をあげることができる。」(『自由教育研究』第一巻、第二号)と主張して、附属小学校ゆえ可能との批判を否定している。
自由教育は学習向上に専念したのではない。尋常科二年、河合千枝子の母は学校への手紙で、手塚の著書を読んで、大正十一年七月十二日、一家をあげて東京から引越し、兄は二年に転入し、「弱くて青い顔をしていたのが、子供らしい元気な子」になったことに感謝している。妹の千枝子について、「千枝子は、今まではどんな小さなものでも、自分の持物は人にいぢられる事もきらいな、むろん上げる事なんてした事もありませんでしたのに、大地震の時配給品を私がこしらえて居りましたら、自分の古い雑誌だの鉛筆だの沢山持ってきて、『お母様これ入れてちょうだい』と申しました。私がふとみると其中に大切にして誰にもさわらせなかったお人形がありました。」(『自由教育』第一巻、第三号)と記して身体、情操教育に学校が努力しているのに感謝している。
「自由教育」は研究会、学校参観、千葉師範学校卒業生らによって、次第に、県下、全国に拡大していった。大正十五年七月から八月にかけて、県内十数カ所、千葉市内では千葉尋常小学校第四部(現登戸小学校)、都賀尋常小学校、更科尋常高等小学校で開催されている。「自由教育」を全国に広めた功績は雑誌『自由教育』の発刊であった。大正十三年創刊号が発行されるが、発行宣伝に当時としては多額な五百円を投じ、一冊三三銭で会員に販売した。創刊号の申込者は二千五百余人、教員ばかりでなく、一般の人々も多数購読して、その編集、発送は多忙を極めた。会員は年々増加して、大正十三年七月十五日現在、三、三六六名、四九五校が列記されている。購読者を府県別にみると、千葉県が断然多く、秋田、徳島、愛知、神奈川、群馬、栃木、(朝鮮)などが上位を占め、大正十五年には四千五百人の会員に達している。
また、大正十一年、雑誌『ふ多バ』を発行、県下小学生から、童話、小説、劇、童謡、自由詩、短歌、俳句、考え物新題、表紙図案、写真等を募集して、児童に作品発表の機会を与えている(五―九四表)大正十三年の応募状況参照)。大正十二年、山武郡土気尋常高等小学校を卒業した野崎弥は「想い出」と題し、次のように記している。
六年生の時、新卒で坊主頭学生服そのままの上代只四(土屋)先生が新しく受持になり、クラスを幾つかに分け、各ブロック毎に机を向き合わせに並べ、勉強も掃除も、反省会も総べて生徒の自主性に任せると言う変わった教育指導で、のびのびした気分で学習をしました。特に生徒の意見や童謡、俳句や作文を集めガリ版刷りを自費制作したり、千師附属発行の「ふたば」購読、投稿を奨め、たまに入選でもすると、とても喜んだ事など回想の特ダネと言えます。
種類 | 応募数 |
綴方 | 90 |
童謡 | 400 |
俳句 | 200 |
自由詩 | 100 |
短歌 | 350 |
劇 | 6 |
舞踊 | 2 |
童話 | 3 |
考へ物 | 350 |
(『ふたば』大正13年7月号)
県下各小学校、特に小規模小学校では作品交流の場として『ふ多バ』の果した役割は大きいといえよう。教職員には『自由教育』(大正十五年『自由教育研究』と改題)、児童には『ふ多バ』を通して、「自由教育」は拡大していった。
大正末年には基礎が確立、教育改造節(注一)の歌声は天下を圧する風さえあった。その「自由教育」も昭和に入って急速に衰退していった。時の流れが手塚らの主張した自由さえ許さなかったというほかはない。こうして附属小学校における組織的な「自由教育」は昭和三~四年ころ、自然消滅の形で消えうせていった。しかし、自由教育の精神は千葉市の教育に生き続けていた。昭和十二年といえば七月に日華事変が勃発し、戦争の影が重苦しく国民におおいかぶさってくる時期であるが、その年の十月、千葉市教育会は『千葉の教育』を発行している。その中で千葉第二尋常小学校(校長永井村太郎)教育方針の冒頭に「教育の目的は文化価値の実現」と書き出し、人格の育成が教育者の使命であると断定している。そして、方法として、「児童の自発性を培ふこと。」を第一にあげている。もちろん、教育勅語にも言及しているが、それも教育方針の終わりに近く「教育の理念は至尊(天皇)に発し至尊に復帰するのである。即ち循環である。循環なればこそ尽きることなき永遠性がある。」と結んでいる。以上の教育方針が、手塚岸衛著『自由教育真義』の巻頭に高く掲げた文章を念頭に置いて書かれたことに疑いを抱く者はあるまい。また、千葉第三尋常小校(現寒川小学校)の教育方針にも「自主的学習ヲ本体トシ教師ハ常ニ輔導者ノ地位ニアルコト)と定め、自由学習時を特設、学校園、小禽舎、池などを直観施設と呼んで、児童の直接観察を重視、自治訓練として、児童による部落自治会を組織するなど、「自由教育」の成果を大きくとりいれているように見える。
年代 | 事項 |
大正八年六月 | 手塚岸衛千師附属小学校主事として着任 |
七月 | 職員の研究会として白楊会を結成計画 |
八月 | 篠原助市を講師に哲学講習会(四日間)八百人参加 |
九月 | 尋常五年以上に学級自治会を創設 |
十月 | 尋常科五年男子に以前の教授要領から離れた授業開始 |
九年一月 | 高等科男子に一週一回の自由学習時を特設 |
四月 | 全校で自由教育主義による教育を開始 |
六月 | 自由教育の公開(三日間)県下教育界に反響をよぶ |
九月 | 手塚主事、全国師範学校主事会で自由教育について発表 |
東京日々新聞、大阪毎日新聞で全国に報道される | |
十月 | 篠原助市を講師に講習会(哲学と教育) |
十年六月 | 第二回自由教育公開研究会 |
(このころより師範卒業生により自由教育が県下に浸透) | |
十一年三月 | 手塚岸衛著自由教育真義発刊 |
雑誌〝ふたば〟発行(小学生対象の文芸雑誌) | |
六月 | 第三回自由教育公開研究会 |
十二月 | 手塚主事欧州教育視察(十二年九月帰朝) |
十二年六月 | 第四回自由教育公開研究会 |
十三年二月 | 秋田県能代市に白楊会秋田支部結成(会員八二名) |
(このころより全国に白楊会支部結成される) | |
三月 | 白楊会より機関紙〝自由教育〟発行(年三回) |
四月 | 四月より八月にかけて県内五四、県外二一会場で自由教育講習会開催 |
六月 | 第五回自由教育公開研究会(三日間、千四百人参加) |
七月 | 機関紙〝自由教育〟購読者三、三六六人 |
十四年六月 | 第六回自由教育公開研究会 |
七月 | この年の自由教育夏季講習会は朝鮮沖縄など県外八県で開く |
十五年二月 | 機関紙〝自由教育〟を〝自由教育研究〟と改める(毎月発行) |
四月 | 手塚主事県立大多喜中学校長に転任、中島義一主事となる |
六月 | 第七回自由教育公開研究会(手塚岸衛は講師) |
大正十五年度で県下で約百校が自由教育に賛同 | |
千葉市天神台で自由幼稚園開園(長戸路政司) | |
大正十五年度の会員四千五百人 | |
昭和二年七月 | 手塚校長大多喜中学校長を退職 |
注一 教育改造節
一ツトセー 人の子害ふ教育を先づ一番に打破れ ソレ改造ダネー
二ツトセー 奮闘しようぞい理想へとポプラの梢天を衝く ソレ改造ダネー
三ツトセー 右や左を見返りて気運に後れてなるものか ソレ改造ダネー
四ツトセー 世の人醒めよ鶏がなく個性個性と鶏がなく ソレ改造ダネー
五ツトセー 猪の鼻台から鐘がなる自我に醒めよと鐘がなる ソレ改造ダネー
六ツトセー 無理をしないで伸び伸びと児童本位の自由主義 ソレ改造ダネー
七ツトセー 何から何まで自律的人格尊重自由主義 ソレ改造ダネー
八ツトセー 止むに止まれぬこの叫び日本教育どうするか ソレ改造ダネー
九ツトセー 心合せて一同が連帯一致のこの事業 ソレ改造ダネー
十トセー とんとん拍子に突破して改造成功おめでたやー ソレ改造ダネー