第三項 郷土の教育界

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 大正十年(一九二一)一月一日千葉町に市制が施行されると、行政全般にわたって、改革が行われたが、同年九月九日、市会は一市一校の制度をとることを可決し、十月一日、市立各尋常高等小学校は、
 旧千葉尋常高等小学校を第一部
 旧第一千葉尋常小学校を第二部
 旧第二千葉尋常小学校と旧第四千葉尋常小学校を第三部
 旧第三千葉尋常小学校を第四部
と定め、千葉師範学校附属小学校黒砂分教場を吸収して、第四部に属させ、三山春次を校長に発令して、千葉市の小学校は、千葉尋常高等小学校一校の、いわゆる一市一校制を採用している。現在では一市一校制を採用した正確な理由は、不明な部分も多いが、当時、第一次世界大戦後物価の変動が激しく、かつ町制時代から、町税の滞納が相つぎ、発足当初の市財政は、次第に増大する諸経費に苦しみ、少ない費用で、いかに効果的な教育を実施するかとの観点に立って、町時代の五校を四校に減らそうとして、一市一校制を採用したと思われる。観点が財政問題であったため、一市一校制の構想は、教育関係者ではなく、市会議員(学校を一校減少すべきとの意見は町制時代から存在していた。)の間から、まず起り、全国の小学校の状況調査がなされる過程で、当時、教育県として、令名の高かった、長野県松本市が一市一校制を実施しているのを知り、市会議員、学校関係者が松本市に出張して、詳しく、その状況を視察し、市制施行を機に、わが千葉市において、一市一校制を採用したらしい。しかし、後年、市会議員大沢中は、
 之(一市一校制をさす)は政略ニ依リ実現シタト云フ事デアル、当時ノ理事者ハ部落統一ニ困難シタ想デ学校ノ統一ヲスレバ部落観念ヲ緩和セラルルト云フノデ政略カラ出タト云フ事ガ首肯セラルルノデアル。

(大正十五年二月二十五日、市議会の発言、同年度『市議会議事録綴』)


と述べている。大沢議員は、大正六年の暴風雨による第二、第四千葉尋常小学校の倒壊後から続いた、統合か否かの対立を市当局者が、一市一校制をしいて、一つの学校ということで、千葉市民の意識を持たせ、対立解消を図ったのを政略という言葉で表現したのであろう。おそらく経費節減と千葉市民意識の育成から、この一市一校制が採用されたが、就学児童四、三七三人のマンモス学校が誕生したのである。
 この学校を経営するのは至難な業であった。しかも、学校に対する非難は、意外に早く、市会議員の中から起こっている。一市一校制施行四カ月後の、大正十一年一月二十八日の市議会で、市会議員志方恵太郎は
 一、祝祭日に生徒全員に御真影が奉拝できないのは、児童生徒の思想養成上遣憾ではないか
 一、一市一校のため有能な校長三名を失うではないか
 一、一人の校長で、各部の職員全員を監督するのは不可能ではないか
 一、新校長は干渉主義をとり、時代に逆行する人物ではないか

(『大正十年度市議事録綴』)


 以上の四点をあげて一市一校制を暗に非難している。これに対し、神田清治市長は御真影については研究しましょう。第二点については、各部の部長に新進気鋭の人を得て、かえって教育の進歩につながると思う。第三・第四点については、有能な校長であり、発足間もないゆえ、教育上の成果を云々すべきではない。しかし今後とも改善すべきことがあれば、改善向上を計りたい、と答えている。
 ところで、この困難な学校経営を遂行し、各部の特色を出しつつ、全体の調和を保っていたのは、三山春次校長であった。
 大正十四年作成の『千葉尋常高等小学校学校要覧』によれば、学校の組織状況は五―九六表のとおりである。
5―96表 千葉尋常高等小学校組織状況
1部2部3部4部穴川分教場黒砂分教場
敷地位置千葉松原千葉東谷寒川下出戸内谷登戸宮の台千葉穴川黒砂西の台
敷地坪数2,3142,5572,8641,5662713009,872
校舎坪数7069931,03736312753,186
教室数2432291113100
講堂11
教員住宅11
児童数1,2721,5871,26247049694,709
職員数2830271212100

 大正十四年といえば、前に述べたとおり、師範の附属小学校では自由教育が、はなばなしく展開されていた時期である。本校の教育の方針は、
 因襲伝統に捉はれざると共に新奇異説に眩惑せられず常に視点を全人の教育に置き妥当穏健なる指導観念によって一切の計画を誘導せんとす。前掲書
であって、暗に自由教育を始めとする、新しい外来思想を批判しているように思われるが、児童の自主的学習の尊重、自由時間の特設、児童、生徒の自治活動の奨励等自由教育の成果と思われる事項をとりあげて、実施に移している。三山校長が苦心した、学校の統一を保つ施策は、各部の横の連絡を強化したことである。各部の部長会を月二回開催するほか五―九七表のような会合をして、協調を保った。しかし、各部はほとんど独立の学校といえるものであったから、その上に、更に学校がある本校の組織は、その運営には相当の無理が生じたといえよう。教職員の負担は増大したが、一市一校のため、市全体としての教育内容は充実していった。以前にも、各教科の研究会などを開いて、職員の研修に当たっていたが、同一学校であるとの意識から、学校間の対立感は薄れ、率直な討議がかわされた。特に、国語、算術については年間五回の一斉学力測定を実施して、学力の向上に努めた。この結果、周辺の村々から、市内(特に第二部)への越境入学が絶えなかった。市内の学齢児童増加で教室が不足ぎみのうえに、更に越境入学がある。教室はいくら増設してもきりがない、との意見もあったが、正式に寄留届が出されれば、関係者にとっては、どうしようもなかったらしい。わずかに、周辺町村に依頼して、越境入学をとどめようとしている(大正十四年度、第二部へ男二一名、女一四名の越境入学が報告されている。)。
5―97表 千葉尋常高等小学校会合
名称備考
職員総会毎学期1回
部長会毎月2回
本校教科主任会随時
本校学年主任会随時
本校学年会随時

 松本市に範をとって実施した一市一校制であるが、松本市で一市一校制がゆきずまっていったように、千葉市においても、児童数の増加は、到底その維持が不可能になり、大正十五年三月、教育制度改革が提案され、同年九月十三日、千葉市臨時学制調査委員会規程が施行された。
 第二条 委員ハ十三トシ市会議員中ヨリ九名、市公民選挙権ヲ有スル者ヨリ四名ヲ選ス
 第三条 委員ハ市教育上学制ニ関スル事項ヲ研究調査スルモノトス

(大正十五年『千葉市会会議録』)


 右が規程の骨子で、委員には、和田秀之助、一ノ瀬房之助、神谷良平、石塚正二、斉藤三五郎、大沢中、志方恵太郎、田村六三郎、西川測吉(以上市会議員)、田村昇、今井与志雄、楠原繁次郎、高瀬茂兵衛(以上公民中選挙権を有する者)が任命された。この委員会の答申を受け、昭和三年、一市数校制に復帰している。
 第一部 千葉第一尋常高等小学校(現新宿小の前身)
 第二部 千葉第二尋常高等小学校(現本町小の前身)
 第三部 千葉第三尋常高等小学校(現寒川小の前身)
 第四部 千葉登戸尋常小学校(現登戸小の前身)
 なお、千葉市内の高等科が一校に統合されたのは、昭和八年である。
 
 大正期、一市一校制の施行とならんで、市教育界に起こった著しいできごとは市立商業学校の設置である。本校の淵源は古く、千葉商工実業補習学校に始まるといわれている。明治二十三年発布の「小学校令」では「徒弟学校及実業補習学校モ亦小学校ノ種類トス」と規定して、実業補習学校は小学校に含まれていたが、井上毅文部大臣のとき、明治二十六年十二月、「実業補習学校規程」を発布、実業教育の充実を図っている。実業補習学校(通称、実補学校)は原則として、小学校卒業以上の者に、三カ年に職業上必要な知識、技能を授けるもので、地域の特色から、工業、商業、農業、水産などに分かれていた。千葉町では、明治三十四年、創立され、当時の高等小学校長原庫二が校長を兼任、教員にも、高等小学校の職員が兼ねて、千葉商工業実業補習学校として、大日寺の敷地内に開校している。三十六年、新町に校舎を建て、一部の教室は高等小学校に使用させていた。工業は主に漆工、商業は珠算、簿記であった。(誉田、犢橋には農業補習学校が設置されている。ほかに現教育会館の敷地に、附属小学校が移転後明治三十年に千葉県簡易農学校が設置されたが、明治三十二年茂原町に移転している。)。
 大正六年、工業を削り、商業補習学校と改称している。夜間の学習を主として、本科、別科に分け、本科は義務教育終了の商人の子弟を入学させ、別科は商店の店員を対象としていたが、商家の子弟は高等小学校に入学して、商業補習学校は甚だ不振であった。市会議員田村六三郎は、その不振の原因は、「未ダ市民ガ補習学校ノ何物タルカヲ能ク了解シテ居ラヌ事ガ最大原因デアル」と前置して、商人がすすんで、この補習学校に入学させないと、商都千葉市は大変な状態になると警告、「現ニ千葉土着ノ商業家ガ漸次本町・市場等ノ如キ繁華ナル位置ヲ去リ外来ノ商人ガ其跡ヲ占領スルト云フコトモ、即チ、此点ニ覚醒シナイ結果デアラウト信ズル」(『大正十一年千葉市会会議録』)と主張して、商業補習学校の振興のため、設備の改善を提案している。
 しかし、実業補習学校の枠内ではその充実は期待できなかった。そこで、神田市長は商業学校に昇格させて、千葉市商業発展の基礎としようと計った。最初は五年制の甲種商業学校を考えていたが、経費の問題でやむなく、修業年限三年の乙種商業学校として出発した。現在の千葉商業学校の誕生である。しかも、以前の実業補習学校は季節的開講にして、第一部穴川分校、第三部の千葉寺仮教室、第四部黒砂分教場の三教室に農業科、第一部校舎と第二部校舎に商業科、第三部校舎に水産科を設置して、勤労青少年の補習教育に当たることとなった。その後、大正十五年四月、勅令で青年訓練所令が発布されると、実業補習学校は組織を改正して、公民教育と軍事教練主体に変わり、次第に軍事色を強めていった。