ついで昭和四年、世界大恐慌となり、同年十月ニューヨーク取引所の株価大崩落をきっかけに世界的不況に発展していった。
これは第一次世界大戦の好況後の問題点として、来るべきものがきた経済界の宿命的な問題であったともいわれる。
日本国内の恐慌は『史料日本史』によると、まず商品相場と株式市場を襲った。物価は昭和五年(一九三〇)は前年に比べて一七パーセント、翌六年には一五パーセント下落した。特に生産材の低落がひどかった。株価は大正十三年を一〇〇とすると、昭和四年六月が一〇四、五年六月が七四に暴落している。中小企業の倒産が相次ぎ、経済界に大打撃を与えた。
一方、この恐慌は、農村にも大きな影響を与え、未曽有の農業危機を現出した。特にアメリカの不況によって輸出品の生糸が止まり養蚕農家の窮乏となって現われた。また、昭和五年の大豊作によって米価が大暴落した(深川正米市場価格は五年の八月と翌年の八月までの間に四二パーセントも下落している。)。
これによって全国の農家は文字どおり窮地に立たされ、生活難から負債が増加し、国政、地方政治の上で大問題に発展していった。工業製品はカルテルによって価格維持工作が行われたのに対し、農産物は、これが不可能なため農民は一層苦境に陥った。しかも翌六年には、米は大凶作となったので、農家は自家消費の米にも困ったほどである。
当時米の下落をみると、一石(一八〇・三九リットル)の値段は、昭和四年十二月が二八円二一銭、翌五年の六月には二七円五八銭、同十二月は一八円五五銭、六年の六月に一八円四七銭に下がっている。一年間に一〇円弱下がったことになり、農民の打撃はおして知るべしである。
このためにたてられたのが農村経済更生計画である。同計画は市以外の全町村にもれなくたてられたもので、農林大臣訓令が昭和七年十月六日付けで、知事論告と同訓令が九月三日と十月十日に出されている。知事諭告をみると、
方今国家内外ノ情勢極メテ多難ニシテ財界ノ不況ハ益々深刻トナリ商工業ハ萎摩(いま)沈滞シ農山漁村ノ疲弊困憊(こんび)更ニ甚シク国際関係亦愈々重大ヲ加ヘツツアリ此ノ非常時局ニ際シ各般ノ応急施設ヲ講ズルハ正ニ急務ナルト共ニ又之ガ匡救(きようきゆう)ノ根本方策ヲ樹テ民心ノ作興ヲ図ルハ極メテ緊急ノ事ニ属ス(中略)県民諸氏希クハ能ク時局困難ノ実情ヲ凝視シ勤勉自制以テ国民更生ノ実ヲ挙ゲラレンコトヲ前掲書
県では、目的達成のため農政課を新設して、その衝に当たるとともに、産業職員のほかに技師一名、技手二名(所要経費四、八三七円)を増員する一方、産業組合拡充運動のため主事一名、主事補二名(経費二、八七八円)更に蔬菜果実の加工業の経済更生の実をあげるため専任技手一名(経費六五七円)の増員を決めている。
また、県経済更生委員会と町村経済更生委員会とを組織して事業の推進に当たった。県の経済更生委員会は、藤田傊治郎内務部長を委員長に、部課長や県会議員、各界代表を委員にしている。千葉市からは信用組合連合会長の武本為訓らが参画している。
町村経済更生委員会は、町村長を始め、町村会議員、小学校長、区長、農会長、産業、漁業両組合長らで組織し、双方とも、
①人心の作興 ②町村経済更生計画の指導統制 ③経済自治の徹底 ④産業の振興 ⑤産業組合および金融 ⑥農村負債の整理 ⑦生活改善など。
に当たった。以下『千葉県経済更生計画大観』にもとづいて各種施策や経過を追ってみる。
同書の序文には「農山漁村の経済更生計画は、現下非常時局対策中重要なる部門をなしている。農山漁村疲弊の原因が単に一時的なる現象に基くものに非ざる以上、之が対策も又相当永続性を持たねばならぬのは勿論である。従って此の計画は二つの特質を備へねばならぬ。即ち一時は時局匡救の意味に於て成るべく急速に計画の樹立実施を必要とすることと、他の一は計画の永続性といふ建前から計画に対する視野を成るべく広く且遠くせねばならぬといふことである。」としている。
匡救第一年目としては「昭和七年度は洵(まこと)に多事多難の一年であった。打続く財界の深刻なる不況に伴い、民心の不安焦燥甚しく、動もすれば、或は軽佻荒怠に流れ、或は奇矯過激な言動を敢てし、世相の険悪なるに加へて国際関係は異常に緊張し国歩の艱難蓋(かんなんけだ)し未だ曽て無かりしところである。此の難局を打開して国民生活の更生を図り民心を安定せしむるは、真に喫緊の要務であった。殊に農山漁村に於ける疲弊、中小商工業者の困憊は著しきものあり、中産以下の窮乏者に在っては医療にも事欠くの情況に在るものが尠(すくな)くなかった」としている。
当時、県下三四〇の全町村で計画を樹立しているが、県は先の知事諭告を発して趣旨の徼底につとめ、市町村長、公私立学校長及び各種団体長を通じて県民の総動員を促している。
県では、目的達成のため農政課を新設して、その衝に当たるとともに、産業職員のほかに技師一名、技手二名(所要経費四、八三七円)を増員する一方、産業組合拡充運動のため主事一名、主事補二名(経費二、八七八円)更に蔬菜果実の加工業の経済更生の実をあげるため専任技手一名(経費六五七円)の増員を決めている。
また、県経済更生委員会と町村経済更生委員会とを組織して事業の推進に当たった。県の経済更生委員会は、藤田傊治郎内務部長を委員長に、部課長や県会議員、各界代表を委員にしている。千葉市からは信用組合連合会長の武本為訓らが参画している。
町村経済更生委員会は、町村長を始め、町村会議員、小学校長、区長、農会長、産業、漁業両組合長らで組織し、双方とも、
①人心の作興 ②町村経済更生計画の指導統制 ③経済自治の徹底 ④産業の振興 ⑤産業組合および金融 ⑥農村負債の整理 ⑦生活改善など。
に当たった。以下『千葉県経済更生計画大観』にもとづいて各種施策や経過を追ってみる。
同書の序文には「農山漁村の経済更生計画は、現下非常時局対策中重要なる部門をなしている。農山漁村疲弊の原因が単に一時的なる現象に基くものに非ざる以上、之が対策も又相当永続性を持たねばならぬのは勿論である。従って此の計画は二つの特質を備へねばならぬ。即ち一時は時局匡救の意味に於て成るべく急速に計画の樹立実施を必要とすることと、他の一は計画の永続性といふ建前から計画に対する視野を成るべく広く且遠くせねばならぬといふことである。」としている。
匡救第一年目としては「昭和七年度は洵(まこと)に多事多難の一年であった。打続く財界の深刻なる不況に伴い、民心の不安焦燥甚しく、動もすれば、或は軽佻荒怠に流れ、或は奇矯過激な言動を敢てし、世相の険悪なるに加へて国際関係は異常に緊張し国歩の艱難蓋(かんなんけだ)し未だ曽て無かりしところである。此の難局を打開して国民生活の更生を図り民心を安定せしむるは、真に喫緊の要務であった。殊に農山漁村に於ける疲弊、中小商工業者の困憊は著しきものあり、中産以下の窮乏者に在っては医療にも事欠くの情況に在るものが尠(すくな)くなかった」としている。
当時、県下三四〇の全町村で計画を樹立しているが、県は先の知事諭告を発して趣旨の徼底につとめ、市町村長、公私立学校長及び各種団体長を通じて県民の総動員を促している。