日本は、大正末期から学校教育に軍事教育を取り入れるなど軍国主義化、ファシズム化の道を歩み始めていたので、この事変の前後から右翼的な事件が相次いで起こされている。三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件などがそれである。
この事変を契機に社会情勢は「非常時」とか「準戦時体制」という言葉が盛んに使われるようになった。軍事体制の強化、軍備拡張のための工作であったようである。
昭和一、二年の金融恐慌による不況、企業倒産のあとをうけて、産業界は不況に陥り、農村地帯は、特にひどい打撃をうけていた。この農村不況の打撃は昭和十年ごろまでつづいた。すなわち昭和六、七年の農作物豊凶作のあと、昭和八年には豊作飢饉(ききん)、昭和九年の大凶作と、相次ぐ農業恐慌のため農民の困窮は増大するばかりであった。
こうした社会状態を背景に、軍の兵士の大部分が農村出身であるため、軍の中堅幹部を不安、焦燥に陥し入れ、何らかの対策確立に迫られたことが、政治改革へ走らせた要因でもあるとされている。
ついで、七年一月に上海事変が起こり戦火は拡大していった。
事変ぼっ発後の十二月六日千葉鉄道第一連隊に出動命令が下り、ついで十二月二十日再び同連隊に出動命令が出されている。また歩兵学校にも十二月十八日、出動命令が出て、いずれも千葉駅から盛大な見送りをうけて出発している。
一方、同年満州国が成立したので、日本政府は同国の育成に当たった。しかし、国際連盟のリットン報告によって、満州における日本の行動は、侵略であると断定されたので、日本政府は昭和八年三月、国際連盟を脱退し、国際孤立を深めていった。
当時の千葉市の動きはどうであったのか、産業、鉄道などは別項のような状況であったが、その他の動きは次のようなものであった。
昭和初期の大和橋付近