神谷市長の序文には「この十年間は謂(い)わば千葉市の創業時代であり、苦難時代であった。千葉市が真に近代都市として発展するのは、これからのことである。幸にして市民多年の要望であった都市計画法も愈々九月一日から実現され、市街地建築物法緩和規定も同時に施行された。」とあり、また後藤知事の序文には「千葉市は今可なりの力を以て伸びんとしつつある新興都市である。(中略)千葉市の前途に対しては多大の光明と楽観を持つものである。」とある。
だが、応募の論文を一稿ずつ読んでみると、千葉市は、まだ近代都市の形態をなに一つなしていないことがわかる。以下論文の中から幾つかをあげてみる。
一 道路の悪いことが異口同音に述べられている。「感ずることは道路の狭悪、不整頓、迷宮を歩む思いのする道路、舗装されているのは県庁脇きの知事官舎前の二~三十間(約三六~四八メートル)だけで、あとは未舗装である。そのために風が吹けば、黄塵がうず巻き、目も口もあけていられない」と歎いている。そのために今後近代都市になるために、道路整備を訴えている。
一 排水溝がないため、ひと雨降ると、ドブ川がはんらんして不衛生極まりないとしていることも目立っている。
不衛生をカバーするためであろうが、衛生組合が一部を除いて各区に設立されている。当時衛生組合のあった区は、市制十周年記念として発行の『千葉市自治役職員名簿』によると、
組合名 組合長
市場衛生組合 鹿倉音次郎
本町三丁目同 富原徳次郎
本町二丁目同 中谷甚左衛門
本町一丁目同 高松佐四郎
横町 同 村越徳次郎
南道場 同 植草長吉
北道場 同 鶴岡岩三郎
東院内 同 和田茂右衛門
西院内 同 土屋垣三
通町 同 大熊福次郎
吾妻一丁目同 小島藤三郎
同 二丁目同 安藤松五郎
同 三丁目同 藤原治郎
千葉穴川 同 大矢重二
登戸下 同 青木基一
同中 同 滝口助次郎
同上 同 安田権右衛門
登戸穴川 同 和田豊吉
新田 同 秋山泰輔
新田海岸 同 中島健治
新宿 同 鈴木喜太郎
向寒川 同 深山伝
長洲 同 喜勢蔵之助
仲宿 同 岩田明次郎
下仲 同 斎藤栄治
片町 同 伊藤菊司
五田保 同 長谷川権之助
千葉寺 同 長谷川平三郎
黒砂 同 滝口猪之輔
そのほか、市の様子としては、
一 毎日、新しい家が一軒半ないし二軒建築されて建築が盛んなこと。
一 市の中心部には、まだ畑が大分あること。
一 ゴミの収集は馬車で運び、寒川小学校跡で焼却していること。
一 学校は狭く校舎も古い上に、内容設備が老朽化して欠陥だらけである。昭和五年四月から二部授業になること。
一 商業的には盆、暮れの二回、東京の松坂屋、白木屋が出張販売に来市して、そのたびごとに市内の商店街に打撃を与えている。論文の中では、市内商店の結束を訴えているが、物価が東京より高い点を指摘しているものが多い。また、デパートと名のつくものがないので、デパートの建設を訴えている。
一 木造家屋が多いので、火災を心配している。当時、市内の防火設備は、ガソリンポンプが二十三台あるが、常備の消防区域は大和橋地域だけで、あとはない。専任の消防手は、わずか八名しかいないとして補充が課題になっている。
一 工場らしい工場は、参松製飴会社と松本製粉工場の二工場だけである。会社、工場、商店などみるべきものなしとしている。しかし、満州事変前のためか、小規模の工場の出現が目だってきていることも書かれている。
一 市内の市街自動車(乗合バス)は、国鉄千葉駅―本千葉駅―京成千葉停留場間を巡回し、料金は一〇銭均一となっている。
一 公園らしい公園がないとして建設を訴えている。当時公園は、県庁裏公園と亥鼻山公園の二つだけであるが、いずれも公園とは認められないとしている。
一 亥鼻山台上にトンネルが一つあって市民が通行に使用している。一つでは不便である。往復用にもう一本掘ってほしいと訴えている。
一 出洲海岸は遊覧客で汚されてはいるが、水面は鏡のようにキレイである。名産のハマグリ採取をめぐって漁業組合とお客の間でトラブルが発生していること。
昭和初期の出洲海岸
一 自動車が目だってふえ、縦横に走りまくるため、交通事故が頻発している。ために、事故防止を訴えている。また荷車、馬車、自転車の増加が顕著であるが、これは商業活動や市の発展を示すものであろう。
一 医科大学や立派な私立病院が多数あるにも拘らず、医療費が高いと嘆いている。
一 町名、番地が入り組んでいるので、区画整理を望んでいる。それと上下水道の建設要求がでている。
いずれにして多数の応募論文の内容は以上のようであるが、当時すでに千葉市発展の方向として「港の建設と活用、大型船の入港、市は住宅地になるであろうこと、高速道路の建設が必要」などを訴えているものもあるが、現在の市勢が昭和五年早々に書かれた論文どおりになったことを思うと感慨深いものがある。