混乱の市政

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 満州事変前後より少しさかのぼるが、昭和になっても市財政は好転しなかった。前述のように創業時代にあったことと産業界が不況から立ち直れなかったからである。昭和元年市は行政整理のため、助役条例を変更し、従来の二名を一名とし、鈴木助役が辞任、景山周蔵助役が選任された。この年に港湾調査員をおき、寒川港浚渫と築港の調査を開始していることは、市政の中で特筆されることであろう。
 寒川港の浚せつ事業は、県営で行われてきたが、大正の末期に中止され、そのままになっていた。
 昭和三年八月三日、久保三郎市長は任期満了となって辞任し、後任の市長に神谷良平を推すことになり、市会の承認をえている。同市長は三代目の市長である。このとき市長の俸給のことで市会が紛糾した。
 昭和四年当時の市会議員の名簿は前述の市の機構のところでふれたように、その際の市議選挙は、国民待望の「普選」によって行われた。従来からあった納税額の格差によって決められた一、二、三級の選挙制度は、この年から廃止されている。
 このときの市会議員の定数は三〇人であるが、前掲の名簿の中に当選者小池敬三郎が見当たらない。それは亡くなったためである。
 この年の当初予算は四一万九五九九円であったが、浜口内閣が有名な緊縮政策をとったので、千葉市も既定予算から一〇パーセントの五万七六五〇円を節約して実行予算をつくり、役所費を削って職員の減員を行っている。
 昭和四年になっても千葉市は不況のどん底にあり、翌五年も同じような経過をたどった。全国的に不況であったし、一部の例外はあったにしろ、大勢は苦しい状態がつづいた。
 そのため市では滞納整理に努力、事業も大幅に足踏みせざるを得なかった。六年になっても財政の苦しさは変わらなかった。農村の不況から恐慌のまっ最中といってもよかった。しかし、やむを得ずやらなければならない施策は実施せざるを得ないハメになった。
 それは市の都市計画事業を準備することであった。ために都市計画委員をおく一方、高等小学校を新設することになり、一五万五千円の起債を行ったので、六年の予算は五三万円余にぼう張してしまった。
 市税の滞納もこのころからふえ始め市政も二派に分れて抗争するようになった。これは財政の窮迫、困難さが拍車を加えたもので、神谷市政は難局に直面していた。六年の春を迎えて、四月十五日に石塚正二議長、古川興副議長が辞任、西川測吉が新議長となった。七月に入って市の吏員は、自発的に俸給の一部を拠出して財政を助けた。
 しかし、財政難は少しも解消しなかったので、市当局に対する非難は強まる一方であった。総額で五三万円の予算規模では、全く打開の方法がなかった。新たな起債もできず、手をこまねいているばかりであった。
 そうこうしているうちに景山周蔵助役が死去、後任に那須峯吉を推せんし、市会の同意を求めたが、市会は承認せず、おまけに水道敷設許可に関する諮問が市会に提案されるや、北沢春平市議(寒川)は激しく追及し、水道公営(諮問案)派と私営派(北沢派)がするどく対立、結局市の予算は更正予算をつくり、既定予算額縮減という状態に追い込まれた。
 翌七年、言論統制の空気が強まった。軍部や右翼的官僚の策動であったが、この年に「千葉市の電燈料金値下げ運動」が市民の間に広まり、市議たちも積極的に支持し、ついに請願書を関係方面に提出するなど活発な動きをみせた。東京の値下げと呼応した形でもあった。このさい東京電燈(千葉支社は寒川一二一二にあった。)の施設を京成電鉄電燈部に譲渡する動きがあって、これが市民を刺激したともいわれる。
 昭和七年八月に入って神谷良平市長は任期満了となり、後任の選考をめぐって市政は混乱、市会の意向は候補を一本にしぼることができなかったばかりか、具体的に候補をあげることさえ困難であった。そこで市議側は市会招集請求書を市長に提出、その結果、八月下旬に市会を開会した。三十日の市会では、大沢中(寒川)は市役所内の綱紀粛正をせまり、市税徴収係の不正が表面化した。滞納整理が問題となっていた矢先に市税関係の不正は市当局にとって頭の痛い間題であった。
 一方、市長選任の件はいぜん難航したが、十一月に入って市長決定の件を市会に提案することになり、十一日に提出された。しかしこの際宮間俊太郎市議(千葉)は選考委員会の内幕を暴露し、委員会案は受諾できないと主張したが、大半の市議は県の意向を恐れて委員会で選考の財部実秀を僅差で市長に決定し、第四代目市長になった。
 当時、市長の決定は市民の直接投票ではなく、市会の投票で決める仕組みになっていた。だが、決定に当たっては県庁のおかれたおヒザ元の市だけに、ときの知事の意向が市長決定に大きな圧力となることが多かった。
 財部市長就任後、産業課を設けて市政刷新に着手しようとしたが、市政は混乱の一途をたどった。昭和八年二月の市会に提出した新予算五五万九三九五円は、市会で大修正を加えられ、四二万七四二四円に縮減される始末で、市長の立ち場は丸つぶれとなってしまった。
 このあと三月二十日に第四回市会議員選挙が行われた。市議選挙の四回目である。このときの当選者は、
 斎藤三五郎、大沢中、八木坦、石渡定吉、北沢春平、深山伝、寺尾永吉、飯島滋太郎、藤原治郎、綿貫盛一郎、茂木徳音、中尾千剛、沢部恒三、金親雅三、松本清次郎、君塚文司、藤崎貞雄、太田昇、藤代清太郎、西川測吉、篠原謙一郎、臼井荘一、田村鼎、内山徳太郎、丸島清、中村茂、森谷喜惣治、内山昇、小柴正義、藤波清。
以上の三〇名である。三〇人のうち二〇人が入れ替り、前議員で再び議員となったのは、わずか一〇名であった。選挙後、議長に斎藤三五郎、副議長に藤原治郎が就任したが、新市会も反市長的空気が濃く、高等小学校の新築問題をはじめ、市吏員の綱紀粛正、財政の建て直しについて市長を追及、かくて那須峯吉助役がまず辞表を提出、後任に宮内三朗が県から転じて就任、これとともに財部実秀市長が辞任、市長就任わずか八カ月で市政から身を引いた。
 後任市長の選挙をめぐってまたも大紛糾した。時の知事岡田文秀は三沢寛一を候補に推し、強引に押し切ろうとしたが、市会の半数は加納金助を支持して対立、遂に投票の結果、加納金助一五票、三沢寛一一四票、無効一票で加納市長の就任が決まった。
 市長選の支持で敗れた知事をはじめ県の首脳陣は、面目丸つぶれを回復するため大弾圧の手段に出た。このため加納派の議員は贈収賄を理由に相ついで検挙されるに至った。
 十月になって加納市長のもとで初市会が開かれるや会議録署名問題で北沢春平、丸島清市議らが市長に食い下がるとともに、他方官僚の裏工作が成功していった。
 一方、検察側は検挙の手をゆるめず千葉市会にとって歴史的暗黒時代となった。市長派の大沢中、綿貫盛一郎、田村鼎、藤原治郎、八木坦、寺島永吉、篠原謙一郎、藤代清太郎の八市議が辞表を提出したので、加納市長は「もはやこれまで」として十二月二十三日に辞表を提出、同日の急施市会で承認となった。
 ついで市議の補欠選挙が行われ二月五日に飯田謙次郎、松林善之助、岩瀬甚蔵、浅原銓三郎、田口丑(うし)蔵、小川秀次郎、松山暢、今井鷹司が当選した。その後も辞職が相つぎ、当選したばかりの飯田謙次郎、松山暢をはじめ中尾千剛、藤波清、飯島滋太郎が辞職し、太田昇は心労で死去している。同年十一月十日に再び補欠選挙が行われ、飯島幸十郎、中島巳之吉、佐久間七右衛門、川島幸之助、大沢中、浅尾国一が当選。更に十年十一月十九日に森谷喜惣治、斎藤三五郎、内山昇、小柴正義、藤崎貞雄が辞任または失格となり、十一年一月十四日の補欠選挙で武田俊義、和田常次郎、三橋卯之助、一瀬房之助、渡辺長松が当選した。
 検察側の検挙と県の官僚の圧力でめまぐるしいほど市議の辞職、補欠選挙が行われた。
 加納市長辞任後は、宮内三朗助役が市長代理となった。これによって市会は岡田知事の職務管掌のような形になり、以後市会は低調を極めた(市議会事務局資料『千葉市誌』)