社会情勢

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 満州事変後、昭和七年になると、前記のように上海事変、血盟団事件、五・一五事件など国の内外に暗雲低迷して、巷には不穏な空気が強かった。政府の共産思想に対する弾圧が次第に強化され、検挙が相ついだ。一般の取締り、統制もこのころから次第にやかましくなっていった。
 昭和七年五月に大久保留次郎知事から出された「カフェー取締規則」によると、官公衙、学校、図書館、または病院から一〇〇メートル以内の場所でカフェーの営業をしてはならないことになり、客室は密室にしないで、すべて公開し、照明は新聞を判読しうる程度とすることなどとなっている。
 こうした取締規則と自粛の動きによってカフェーなど女給(現在のホステス役)を雇う商売は、次第に不振となり、昭和十年(一九三五)ごろには、千葉市内のカフェーは蓮池、院内町の六十余店が廃業してしまった。

昭和初期の蓮池

 ラジオが市内に大部分入ってきたようで、前記の十周年記念論文の中にもラジオ体操が若干流行していることが書かれている。大正十五年四月ごろ千葉市の寒川、登戸では、二三六戸がラジオを据えつけているし、千葉警察署管内で六六二戸にラジオがあったほどであるから、昭和五~七年ごろには市内に一千台以上のラジオがあったものと思う。ラジオについては、昭和五年六月ごろの『千葉毎日新聞』に「堪え難い農村生活の単調さもここに一掃された観がある。」とあってラジオによって市民にうるおいをもたらしたことが裏書きされている(ラジオが一般向きに許可されたのは大正十四年三月一日)。
 満州建国とともに駐留の日本軍が増加していったが、これに伴って出征兵士が相次いだ。慰問袋が各家庭から送られる一方、街の随所に、千人針を道行く人に一針ずつ縫って貰う姿が、目だつようになったということが古川豊治郎著『昭和の我が雑記』に記されている。古川豊治郎は千葉市中央の人である。
 『昭和の我が雑記』によると、昭和二年当時の金融恐慌と千葉市のことがでているので、このことにふれたい。
 「当時の銀行取引は一部階級のみにして、小売屋の取引は殆ど少数にあるなり。当時の中流小売商は一日の売上高金五円以下に最も多く、銀行取引は拾円以上なれば取引の要なしなり。斯くの如き実情なるが故、吾妻町金融貯金会を結成し、我等五人理事となり、カン査役一人、計六人にて庶民金融として日掛けにて一口金拾銭とし、希望により数十口の加入者ありて毎日集金に口数だけの金円を渡し、集金人より当番理事に集金を渡し、毎月二回の理事会に借入金申込者の人選を行ない、一ケ年拾五万円前後の融資を行ない、会員より大いに喜ばれたり」
 「このモラトリアムのため卸商は小切手の使用停止により実に困難致したり。その後モラトリアム解除せられしも経済界には活気立たず沈衰状態にありたり。」
とあって、金融恐慌による経済界の衰微と銀行利用者の少ないことがうかがえる。小売商は無尽を行って自ら金融の道を考えたのである。
 同じく同書によると、同年七月、田中内聞総理大臣がかんかん帽に背広姿で三土大蔵大臣、堀切善兵衛衆議院議員らを伴って千葉市を訪れ、演芸館で演説をしている。
 総理大臣来たる――とばかり警戒厳重で、演芸館の入り口には二人の警官が立って入場者一人一人の身体検査に等しいチェックをして入場を許したと報じている。二年前に来市した苦槻内務大臣のときは、なんら警戒がなかったのに比べ、厳しい警戒ぶりは、社会情勢の悪化をあげている。
 更に古川氏は出洲海岸にふれて「海水浴場として最適なりと評され潮干狩を始めとして、海水浴の季節には汽車、電車を利用し、東京方面の日帰客多数来海し、関連業者大繁昌にあり。設備次第にては演会場や会食等に利用せられ、是等の客の送迎にガレージ及人力車等多数を極めて、又海岸通りには夏の貸間も多くありたり。」とあり、社会情勢の悪化と矛盾する点もあるが、業種によっては、繁栄したことを物語るものであろう。