昭和六年五月、浜口内閣は諸物価の下落と財政の窮乏を理由に、官吏の減俸を閣議で申し合わせた。これに対し、政府の各省はもとより、地方自治体などでは挙げて反対の意向を表明し、内閣は崩壊の空気をはらんだことがある。これについて『千葉鉄道管理局史』によると千葉機関区でも問題となり、結局次の要望をきめた。
一、昇給その他の給与は現行どおりせられたい。
一、積極的な人員整理はさけられたい。
一、退職手当は現行どおりの率を続けられたい。
減俸反対運動のさ中の五月十九日に浜口内閣は総辞職し、後任首班に若槻礼次郎が就任した。しかし、若槻内閣も浜口内閣と同様に官吏の減俸を行うと声明したから、反対運動は一段と盛り上がった。全国的な反対の空気を察して政府は、五月二十九日に、
一、諸給与、手当は減額しない。
一、退職賜金の永久制を確認すること。
一、自然減員によらない積極的な人員整理は行なわない。
一、判任官の意志疎通の機関を設けること。
などを提案、解決をみた。このとき、鉄道では現業の職員たちが「減俸はご免だ、この際総辞職する」と決議するとともに、列車の運行を止める空気もあった。が、紙一重の差で解決した。
当時としては破天荒な動きであり、解決が長引けば大変な騒ぎになったことが考えられる。