第四項 国家総動員法と大政翼賛会の活動

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 日華事変の拡大によって戦時色は一段と強化されていった。戦時体制を思想的にバック・アップするため国民精神総動員運動が進められた。昭和十二年(一九三七)十月には、国民精神総動員中央連盟が中央で結成された。
 これより先の同年九月の第七二帝国議会当時、軍部は「総動員法」の制定を主張したが、近衛内閣は、その主張を受け入れなかった。しかし中国大陸での戦火は、日本国内での臨戦体制の強化を余儀なくさせられた。このため政府は、企画院を中心に立案を急ぎ、昭和十三年二月国家総動員法を衆議院に上程した。
 この法案は、大正七年に施行された「軍需産業動員法」では日華事変の遂行に不十分であるとして立案されたものである。主旨は戦時、事変に際して戦争目的を達成するために国の組織、民力などをもっとも効率的に発揮させられるよう物的資源、人的資源を動員しようというものであった。
 同法にいう総動員物資とは、兵器、艦艇、弾薬など直接の軍需物資のほか、国家総動員上必要な被服、食料、飲料、飼料、医薬品、医療用機械、その他の衛生用物資。更に家畜用衛生物資、船舶、航空機、車両、馬などの輸送用物資、通信用物資、土木建築用物資、照明用物資、電力などとなっている。以上のほかこれらの物資の生産、修理、配給または保存に要する原料、材料、機械器具、装置その他の物資及び勅令で指定する国家総動員上必要な物資が含まれている。
 総動員業務というのは、総動員物資の生産、修理、配給、輸入、輸出とその保管及び国家総動員上必要な運輸通信、金融、衛生、家畜衛生または救護、教育訓練、試験研究、情報、啓発宣伝、警備、及びそのほか勅令をもって指定する国家総動員上必要な業務が含まれている。しかも、これらの総動員物資と総動員業務は、法律によることなく勅令によって自由に定めることができるため、議会の反発を招いた。
 国会では当然、総動員法をめぐって論議が展開された。すなわち、違憲論や非常大権干犯論など痛烈な質疑が行われた。審議の段階で一軍務局員が国会議員に対して「黙れ」などと発言したので紛糾したが、結局対外政策の刷新などの付帯条件づきで可決、貴族院でも原案どおり可決され、総動員体制へと突っ走ることになる。
 この法律は前述のように戦時中の必要な統制は、法律の形式をとることなく勅令でやれたので、議会は骨抜き同様の形になった。政党も軍の戦争遂行に協力的なものもあって複雑な様相をみせていたので、総動員法の成立を阻止することはできなかった。
 総動員法の施行に伴って政治体制の強化が叫ばれ「国民再組織」とか「国民再編成」論が台頭していた。この再編成論は政党のほか、経済、文化、婦人団体、青年団、壮年団、産業組合や在郷軍人会など一切の組織を大同団結させようというもので、のちの大政翼賛会の前身のようなものであった。
 総動員法について近衛文麿首相は議会で「当面日支事変には同法を適用しない」と言明していたが、実際には十三年の五月に一部を発動し、七月には第六条を発動、労働者の雇い入れ、解雇、労働時間には全面的に国家統制を加えている。また、十四年の阿部内閣時代に価格統制法(物価を十四年九月十八日の水準でくぎづけにする。)を実施している。
 昭和十五年(一九四〇)を迎えると日華事変は、こう着状態となり、国内では鉄、石炭、電気などをはじめとして生活物資も不足しはじめ、政治的に政治力を結集して挙団一致の体制を確立しようという動きが近衛文麿を中心に活発化していた。
 これによって各政党は相次いで解党し、新体制運動に参加することになり、これが大政翼賛運動として大政翼賛会が結成されることになったものである。