「新体制」の新聞記事 <県立中央図書館蔵>
こうして千葉市はもとより全国津々浦々に至るまで新体制という言葉が流行し、あらゆるものに使用された。読売新聞社では同年九月二十三日に県及び千葉市の後援で市内の教育会館で「新體制大講演会」を開いている。同講演会には「定刻前から続々市民が詰めかけ、軍隊、学校、各種団体、一般市民等聴衆無慮二千名、会場は立錐の余地なき盛況」と報道している。当時の新体制への盛り上がりを示すものであろう。
大政翼賛会県支部が発足したのは十五年十一月三十日である。同日付けの『読売新聞』の「千葉読売」版によると「各階層人材を簡抜、支部の陣容成る、けふ輝かしき発足」として顧問、参与、理事らの首脳陣決定を報じている。顧問は二六名、参与二八名、理事は伊藤県会議長ら常務委員の中から六名、そのほか千葉商工会議所理事・石川参太、県販購連専務・山崎恒ら民間人から三名、それに県から渡総務部長を加えた一〇名でスタートしている。理事一〇名の中から常務理事二人を選び有給で常勤としている。常務理事は野田町長の飯田謙次郎らに決まったので、同氏は町長を辞任し、就任している。そして十二月二十六日に日赤県支部の建物の中に翼賛会県支部の看板をかかげ事務を開始している。
大政翼賛会の新聞記事 <県立中央図書館蔵>
このとき千葉市からは顧問として永井市長を始め千葉合同銀行(のちの千葉銀行)頭取・古荘四郎彦ら八名、参与として千葉中学校(現千葉高)校長・大館龍祥ら七人が参加している。特に参与に沼田多美子ら二女性が選ばれたことが異彩を放っていると報道されている。
千葉市支部は同年十二月に発足し、高度国防国家体制の実現、大東亜共栄圏の確立、新体制の推進、翼賛の誓いなどを目標とした。このことは県支部やほかの市町村支部とも同じであった。市の支部長には永井準一郎市長が翌十六年一月十六日に任命されている(結成後、近衛総裁から任命されたもの)。市支部の理事は一〇名と決まったので、千葉市では二月十五日に理事一〇名を指名している。
この大政翼賛会組織は、県支部のほか郡支部、市町村支部を設けたほか、協力会議を組織している。協力会議も県、郡、市町村の三段階に設け、各界の代表者に委嘱している。千葉市でも十六年二月十八日に協力会議員三五名を決めている。
当時の新聞報道をみると大政翼賛会一色の感があって、県支部の参与に言論界代表として数社が参加している。
大政翼賛会の千葉市での動きは、前記のほかに昭和十五年八月十八日の『千葉読売』版に「昭和維新」と報じ、更に同じく十月十日付けには「大政翼賛と三国同盟(日独伊)大会が十三日に千葉神社を始め都賀、蘇我、検見川、稲毛、畑の各小学校で開かれ、県職員、市職員、警防団、在郷軍人、愛国婦人会、国防婦人会のほか、各小・中学生ら二千五百余人が参集して大会を開き、会終了後八尺(約二・四メートル)余のノボリを先頭に本町通りを行進する」ことが報道されているし、連日のように大政翼賛会のことが新聞に載っている。
また、大政翼賛会を盛り上げるには民間の力が結集されなくてはならないとして、県会に「大政翼賛県政研究会」が組織され、飯豊幸十郎(千葉市選出)をはじめ山村新治郎ら有志が参加、第一回会合の開かれた十五年十一月二十四日には一九議員が出席している。
大政翼賛運動については、すべての政党が解散して無党派時代となり、翼賛運動に結集されていった。翼賛会については「万民翼賛、一億一心、職分奉公の国民組織を確立し、その運動を円滑ならしめ、もって臣道実践体制の実現を期すことを目的とする全国民の運動」を目標としたが、この運動も当初は近衛文麿が軍部の動きを抑えるために構想されたといわれる。しかし、やがて軍部ペースにはまってしまったといわれている。
大政翼賛会以外の新体制運動としては、労働運動面における大日本産業報国会など各種報国会の結成と隣組の組織であろう。例えば美術報国会、言論報国会、農業報国連盟などである。
産業報国会の全国的な起こりは、労使協調のため大正八年に設置された協調会が昭和十三年(一九三八)に産業報国中央連盟として再組織されて、各事業場に産業報国会を設立したのに始まる。翌十四年、全労働者の総力を発揮させるため政府自身指導に乗り出し、昭和十五年、政府は産業報国運動の進展によって労働組合は不必要であるとして、労組を解散させる方針をとったので、同年に労働組合、農民組合は相次いで解散し、若干のいきさつがあったものの、代わって「大日本産業報国会」が結成されたものである。
千葉市での産業報国会の動きは、大工場がなかった関係か『千葉県労働運動史』をみても、これといった動きは見当たらず、政府の方針に大勢順応であったようである。
隣組は、昭和十五年(一九四〇)三月東京都で都政に協力して貰う機構として設けられたのが最初で、次第に全国に普及していった。内務省は同年九月、訓令をもって隣組の目的、組織を決めた。この訓令は隣組以外の部落会、町内会、隣保班、市町村常会についても定めている。同訓令の目的は、
一、隣保団結の精神に基づき、市町村内の住民を組織結合して万民翼賛の本旨に則り、地方共同の任務を遂行させること。
一、国民の道徳的練成と精神的団結をはかる基礎的組織たらしめること。
一、国策を汎(あまね)く国民に浸透させ、国政万般の円滑な運用に従事させること。
一、国民の経済生活の地域的統制単位として、統制経済の運用と国民生活の安定上、必要な機能を発揮させること。
の四点にあるとされた。組織のうち部落会と町内会については、市町村の区域を分けて村落には部落会、市街地には町内会をおくことにした。特に市街地では部落、又は町内住民を基礎とする地域的組織にするとともに、市や町の補助的下部組織とした。区域については、部落会は行政区その他既存の部落的団体の区域を参酌して地域の協同活動をするのに適当な区域とした。
したがって、区域は原則として都市の町もしくは丁目の行政区とし、そこに部落会、町内会をおいた。
会長の選任に当たっては地方の実情にそって従来の慣行に従い、地域の推せん、その他の適当な方法によったものの、形式的には市町村長の選任ないし、告示によるものとした。またそれぞれ常会を設けた。
隣組のことを隣保班といったが、隣組といったところが多く、五人組、十人組といったところもあった。
市町村常会は各市町村(六大都市は区)に設置し、市町村長を中心にして、部落会長、町内会長、又は町内連合会長及び市町村の各種団体代表、その他適当な人を選んで組織した。常会では市町村の各種行政の総合的運営を図るとともに、各種行政事務の連絡や配給などの業務に当たったが、常会の設置によって議会が軽視される批判もあった。
隣組は行政の連絡や配給業務などに大きな役割りを果たすと同時に、出征兵士の見送り、軍需資材の供出、国債の割り当てや助け合い、貯蓄など戦時下の協力団体であった。
県庁前でのむしろ織りの実演 <和田茂右衛門氏提供>
千葉市の隣組発足のいきさつは、防空群としてであった。市内の防空群は二千余群が組織され、防空活動に当たった。一群は一〇戸内外から成っていたが、これを隣組とし、その上に町内会、同連合会をおいた。これによって区の名称を廃止し、いわゆる戦時中の流行語であった「上意下達、下意上達」の機関とした。一町内は大体七〇戸を標準とし、隣組の総数は一、八〇三組に達した。
また、市内の町内会、隣組は物資の配給、税の納入に対する協力、警防、社会教育の場でもあった。新機構の誕生によって従来の納税組合、衛生組合などは解散している。一方、精神的には町内会とともに「万民翼賛、道義的練成、精神的団結」を標語とし、実際面の活動は「国民経済生活の地域的統制単位、増産と供出、配給消費の規正機関」であった。そして常会は毎月一回開くことを励行したが、これによって配給物資の横流しなど腐敗を生んだことも事実であった。
大政翼賛運動の中で、いま一つは翼賛壮年団の結成である。壮年層を中心に発足したもので、その実践機関である町内会連合会は十六年一月にスタートしている。市内の動きはつぎのとおりである。
連合会 会長 事務所 町内会数
第一方面 加藤義治 新町公会堂 四〇
第二方面 沢部恒三 東本町一三 四三
第三方面 岩瀬甚蔵 市役所 四八
第四方面 臼井荘一 院内町三六 四七
第五方面 金山久松 登戸国民学校 二〇
第六方面 足立幸吉良 都出張所 一九
第七方面 高井純 検見川出張所 三二
第八方面 大森浩一郎 蘇我出張所 一五
第九方面 増田栄一 作草部七七六 一二
総戸数一万八二八一戸、町内数二七四、隣組数一、八〇三
言論報国会の動きとしては、昭和十五年に県内の新聞を統合して『千葉新報』として再発足している。このとき近衛首相からの祝辞が同新報に掲載されている。
聖戦茲に四年(中略)前途尚幾多の難関を覚悟せざるべからず、茲に帝国は不動の決意を以て大政翼賛の新体制の強化を図り外盟朋と提携し、世界の新秩序建設に邁進せんとす。
此の秋に方り千葉新報が卒先言論界の新体制下に創刊せられるは洵に慶賀に堪えざる所なり、冀くは言論の公器としての重大なる使命を全ふし、愈々社運の隆盛ならんことを、茲に一言所懐を述べて祝辞と為す。
昭和十五年十一月二十日
内閣総理大臣公爵 近衛文麿