国家総動員法とその動き

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 本項の冒頭に記したように、日華事変の重大化とともに総動員体制がとられ、昭和十二年九月一日から毎月一日を「国民精神総動員の日」と定めた。ついで十四年九月からは、これが「興亜奉公日」と改められた。十月には軍用資源秘密保護法が施行され、軍事上の機密を守るための言論に対する圧迫が強化された。この年には国民登録制度、米穀配給統制法、賃銀統制令、価格統制法、国民徴用令など戦時体制強化の法律が公布され、総動員体制が強化されていった。
 昭和十六年十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争(当時は大東亜戦争といった。)に突入すると、総動員体制は否応なしにきびしさを加えていった。これより先、同年の四月からは、生活物資は大幅に配給体制が強化されている。
 また、太平洋戦争ぼつ発前の十六年十一月十五日には第七七臨時帝国議会が開かれ戦時金融金庫法、戦時災害保護法、治安維持法改正法、物資統制令、国防保安法などが公布されている。
 翌十七年一月には、それまで行われていた「興亜奉公日」を廃止して毎月八日を「大詔奉戴日」と決定し、国民の戦争への精神引き締めの日にしている。以下十六年以降の総動員体制を追ってみる。
 千葉市では、その前年すでに防空訓練が行われている。八月に千葉市、千葉郡と東葛地区を含めたもので、この訓練には警防団、特設防護団、家庭防空群が参加、千葉防空学校長菰田中将、千葉連隊区司令官上田大佐らが視察し、賞賛している。防空訓練は真珠湾攻撃の前年から行われていたわけである。

空襲による火災にそなえる隣組の訓練   (『千葉鉄道管理局史』)


昭和13年ごろの本町通り

 十六年に入ると、二月には市内の各小学校の四年生児童を総動員し、二十八日から四月十日まで日曜日を除く毎日、勤労修練を行っている。これは農作物の不足を補うため馬鈴薯の植えつけ、にんじんの種まき、小麦の中耕、追肥などの作業に当たらせたものである。
 主食の米は『千葉県史』によると十六年四月から配給制(国家総動員法生活必需物資統制令による)となり、米はおとな一人一日二合三勺(約三三〇グラム)を基準とし、年齢によって数量と低減した。翌十七年度からは米に麦とさつま芋を加えた量で計算し、米穀換算にして二合三勺分のカロリーを加味したとあるが、『読売新聞』千葉版によると「十五年九月十日から臨時米こく配給統制規則」が実施されており、『千葉新報』の十六年一月十五日の「配給早わかり」特集によると、現在切符制の実施されているものとして米、麦、モチをあげている。県の米穀対策部から一人当たり米二合、麦五勺、正月用のモチ米は二キロが割り当てられていると報じている。したがって米、麦は十六年四月以前に配給制度になっていることがわかる。
 しかし、同特集では、配給制度を度外視しては生活できなくなったといっているものの、まだ配給制度が十分徹底していないため参考までにと断わって配給特集の記事を掲載しているので、配給制度はスタートしたばかりで制度の不徹底さがうかがえる。また、配給とはいっても当時は、大分余裕があったといえる。
 米、麦のほか配給制度になっているものは、木炭、マッチ、砂糖(当時マッチ、砂糖は全国的に実施されているが、その他は県により市町村の状況に応じて実施)、地下タビ、学校生徒用のゴム靴、手ぬぐい、タオル、労働作業衣(作業衣について千葉市は仕立てたうえ配給)、出生児用の肌着、綿フランネル、自転車、リヤカー用チューブとタイヤ、リヤカー、乳幼児の乳製品などとなっている。
 マッチは五人以下の世帯では一カ月並形のものを六個、六人以上九人までは二カ月に家庭用小箱一個となっている(後年マッチ不足のため家庭で炭火を消さないように考えたり、ボロで火繩をつくったりしたそうである)。
 そのほか米や砂糖、軍手などは家庭用、業務用、特種用などに分けられていた。特別の場合は市町村長や町内会長の証明を必要としたもので、町内会長は配給について大きな権限を持っていたことになる。
 千葉市の砂糖が自治切符制になったのは十五年六月五日からであるが、同年十月四日には商工省令第七九号、同八〇号によって配給統制の規則が公布され、配給が強化されている。マッチは同年八月二十日から完全切符制になっている。これも十月四日から統制が強化された。
 木炭については同年十一月一日から切符制になっているが、千葉市では学校児童用の木炭を確保するため十二月から市営製炭に着手、高品町に四カ所、若松町と東寺山に三カ所の製炭所を新設、市内の高等小学校生徒の勤労奉仕で木炭を確保している。第一回に一千五百俵を製炭している。
 また、十六年三月には酒類も配給制になっているし、四月からは生鮮魚介類も配給統制規則が実施され、小売業者や料理飲食店の産地直接購入を禁止した。
 この切符による配給制度は、消費物資の生産減により国民に平等に行き渡るような見地から考えられたものだが、一方で品不足からくる商人の売り惜しみを防ぐ意味もあったと『読売新聞』千葉版などに報道されている。
 炭焼きなどに小学生が動員されたことは前述のとおりであるが、このほか十六年十二月には「国民勤労報国会」が施行され、学校に国民勤労報国隊に対する協力が義務づけられた。したがって、各学校では勤労作業を組織化して勤労報国隊を編成し、教師指導のもとに食糧増産活動に当たった。前述の千葉市内の四年生が農作業に当たったのは、その一環である。それ以外に千葉市の各学校の動きは教育の項のとおりである。
 十七年に入ると婦人会の一本化が行われている。二月にそれまであった国防、愛国婦人会を解消し、大日本婦人会に改組し、十六日に発足している。また、ときを同じくして県警察本部では、敵性用語である米英語によるジャズ、またはこれに類する軽音楽曲目中、卑俗低調、頽廃的、煽動的なものは徹底的に取締まりを命じるとともに「星条旗よ永遠なれ」などは一切演奏を禁止した。ただし古くからわが国に伝わり学校教科書に使用され、一般に普及しているもので、原語によらない「螢の光」「埴生の宿」などは認められた。
 しかし、この米英語など敵性用語排斥の運動は次第に強められ、ついには広告看板からも一掃されたほか、野球用語も全部日本語に換えられ、ストライクは「よし」などの言葉に変えられた。
 また、十七年の二月には、せん維製品消費統制規則によって衣料の切符制が実施された。衣料の切符制は都市居住者が一人一年間に一〇〇点、町村は八〇点であった。それも十九年には五〇点に半減している。着るものも満足に買えなかったのである。
 この切符には有効期間を決めない二〇点相当の小切符と、品目、制限数量を決めない五枚の制限切符がついていた。この使用は商工大臣の使用品目と使用期限の指定以外は使用できなかった。そのほか出産、災難にあったときは市町村長の認定で衣料切符が別に交付されることになっていた。十七年当時の切符制による点数類の主なものを『奈良屋二百二十年史』からみてみるとつぎのとおりである。
 名古屋帯地  一本  八点
 丸帯地    〃   一五点
 着物あわせ  一枚  三〇点
 着物ひとえ  〃   一五点
 事務服    一揃い 一〇点
 背広     三ツ組 四〇点
 ズボン    一着 一二点
 ワンピース  〃   一五点
 ツーピース  〃   二〇点
 スカート   〃    六点
 ブラウス   〃    八点
 毛布     一枚  一二点
 手ぬぐい   一本   二点
 浴用タオル  〃    四点
 四畳半カヤ  一帳  三〇点
 六畳カヤ   〃   四〇点
 大人シャツ  一枚   八点
 大人半袖   〃    六点
 ワイシャツ  〃    八点
 ズロース   一着   五点
 ブルマ    〃    五点
 スリップ   一枚   六点
 パンツ    〃    二点
 足袋     一足   五点
 長靴下    〃    五点
 短靴下    〃    三点
 エプロン   一枚   三点
 〔幼児用〕
 靴下     一足   二点
 スリップ   一着   四点
 ワンピース  〃    六点
 スカート   一枚   四点
 外とう    一着  一〇点
 上下揃い服  〃    八点
 ズロース   一枚   三点
 シャツ    〃    四点

衣料切符入れ   (『奈良屋二百二十年史』)

 十七年には翼賛選挙が実施されている。衆議院議員の任期は十六年に切れていたが一年延長し、十七年の四月三十日に総選挙を実施している。このとき一部の人は翼賛会の推選を断ったが、翼賛会推選議員は全体の八〇パーセント、三八一名(定数四六六名)の当選者を出した。
 十七年といえば、太平洋戦争開戦の翌年であるが、同年末には防火訓練、避難訓練がしばしば行われるようになった。男子は国民服、女子はモンペ姿でバケツによる消火訓練、竹ヤリ訓練も行われている。更に十六年の「農地作付統制令」、十七年の「食糧管理法」などによって市町村農会に離農制限の権限を与え農業生産の向上をはかっている。田植え期の生産減を防ぐため田植え期の行商を禁止したのも十七年である。こうした措置にも拘らず国民はじっと我慢して協力をした。
 十八年になると、一月に千葉市では五〇歳以下の既婚婦人で結婚後三年たっても妊娠していない人たちを調査して「子宝研究会」という座談会を開いている。当時は「生めよ、殖せよ、地に満てよ」といった時代だけに、不妊者の解消に積極的な手が打たれている。同時に、子供の多い家庭は、十月に子宝家庭として、本町の紅谷某らが厚生大臣から表彰されている。
 また、この年から供出時代に入った。戦局は五月にアツツ島守備隊が玉砕するに及んで、深刻化を加えたばかりか資材の不足が目だった。
 このため橋の欄干、寺院の梵鐘、門扉、蚊帳(かや)のつり環など金属という金属はすべて軍艦や兵器づくりのため供出された。千葉市でも隣組や婦人会を通じて供出が積極的に推進されていった。

幕張町役場前の供出風景

 これより先、同年一月にはアルミ貨以外の補助貨幣である白銅貨、銅貨は軍事資材であるとして一枚残らず銀行、信用組合に持参し、アルミ貨や紙幣と交換する運動が進められた。千葉市の浴場組合では同じく一月に洗桶(銅のタガがはめてあったので)まで供出した。
 また、七月には「決戦食」といって米の配給量を二〇パーセント差し引き、代わりに「じゃがいも」などを一般に配給した。もし、芋類を自由販売にすれば一〇年以下の懲役もしくは五万円以下の罰金に処せられた(『県薯類配給統制規則』)。
 同年九月の県庁職員に対する県の服装対策をみると「服装は登庁のときは背広、国民服など一定の様式のものを用いなくてよい。上衣を着ないでありあわせの毛編上衣をもって上衣の代用にしてよろしい。背広を着用する場合でも、ネクタイ、チョッキなどを着用する必要はない。靴の代わりに下駄ばきも差支えない、但し下駄ばきは屋外に限る。外とう、ネクタイは絶対に新調してはいけない。外とう、エリ巻きを所持する者もなるべく着用を見合わせる。女子が和服を用いる場合は、つとめて標準服とする」ことを全庁員に通達し、全県民に率先して決戦衣、簡素化運動を展開している。
 十月に入ると大学生などの徴兵猶予が停止され、相ついで学徒出陣が行われた。更に大学生は在学期間中、一年の三分の一を勤労動員に従事することが義務づけられたのも十月である(この勤労動員は十九年からは一年のうち四カ月になっている)。この年の七月には市内の各学校の運動用具、金属用具類は配給制度になっている。また、十一月にはそれまで一月と二月は農閑期と定められていたが、県規定の改正によって農閑期は認めない。年間を通じて農産物の生産に励むよう指示された。
 そのほか千葉市では十八年一月には富士見国民学校でストーブを戦車、戦艦用にと供出しているし、国民学校(小学校)生徒による行軍、戦場運動、射撃、海洋、航空、機甲、馬事訓練などが行われている。これは県学務課の指示によるものである。
 市では同年八月四日から六日まで郡部の国民学校に「満蒙開拓訓練所」を開設、国民学校高等科児童三〇名(千葉一〇名、都、検見川、蘇我、都賀各五名)を選抜して収容、義勇軍生活の訓練を実施している。
 また、同年三月には千葉市、館山などから選ばれた婦人の精鋭部隊三百余名が東部第八六部隊に一日入隊し、各種戦闘訓練や救護活動を行っている。
 同年九月には男子の平和産業への就職制限を発表している。
 一方、防空面では同年三月三、四、五の三日間にわたり千葉市防空本部、千葉警察署、警防団の三者が一体となり各町内ごとに全力をあげて防空訓練を行っている。これは十七年四月八日に本土が初めて空襲をうけたことと戦局の重大化によるものであった。
 十八年七月になると、千葉市の決戦防空訓練が十五日から六日間も行われている。各町内、隣組などでは見張り用の防空ごうや素掘り無蓋の防空ごう構築を推進している。八月に入ると、市の警防団は下部組織を全面的に拡充強化することになり、一八歳以上五五歳までの男子は一人残らず警防団に入団させられた。
 同時に市では学校施設を空襲から守るため防空資材費一万三千五百円を支出、各学校に防火用の資材、鉄カブトを配分した。更に市内に新らたに四カ所の貯水池を設置している。
 九月には六、七日の二日間市の総合防空訓練を実施するなど防空訓練が相次いで行われた。こうした訓練には、家庭の婦人なども動員され男性に伍して大活躍をしている。
 また、十八年十月、千葉市内の芸妓八人が県職員二人とともに慰問のため中国大陸に派遣された。これは千葉県兵事課で計画したもので、約一カ月の慰問を終えての帰途、紅河で爆撃にあって全員死亡という悲しい事件となった。戦死された方は渡辺良雄元助役の話によると、三子、芳松、玉勇、花丸、若太郎、梅之助、力、染千代の八人ということである。
 この年の九月護国神社が千葉市亥鼻山へ移転している(昭和四十二年九月千葉公園へ移転)。

戦前の護国神社

 十九年になると、食糧不足を補うため県農会と翼賛会県支部は各方面と協力「宅地利用徹底運動実施要綱」を発表した。いわゆる家庭菜園など空地という空地を掘り起こしてさつま芋などを植えつけた。植木などまで掘ってしまった家庭も少なくなかったし、学校の校庭まで畑に代わって行き、体育は完全にストップ状態となった。
 この年の七月サイパン島の守備部隊が玉砕すると戦局の不利は決定的になっていった。ついに結婚式まで制限が加えられた。結婚式に当たっては新郎は国民服、女子はモンペまたは大日本婦人会制定の標準服と定められ、披露はしないこととされた。八月には四〇歳までの国民兵(予備役など軍人経験者は四〇歳以上でもすでに戦場へ応召されていた。)も第一線へ立ちうる兵制の改正が行われるとともに、女子挺身隊の制度も打ち出され、軍事産業への従事が義務づけられた。
 十九年当時、千葉市の奈良屋(現セントラル・プラザ)の一階は「千葉県纎維製品配給統制組合」が使用し、吾妻町配給所となっている。二階は「千葉店頭加工施設組合」、三階は「千葉県物資利用更生協会」が使用し、日用品交換所となり、デパート業務は配給制度のため休業状態となっている。
 このように配給制度になってから、米屋は数店が合体して配給所をつくり、店主たちは、そこの職員となっている。衣料品店も配給所にかわり、料理飲食店は休業となり、商業活動は配給以外は火の消えた形であった。
 二十年にはいると食生活はドン底の苦しい日々が続き、主食の不足から「雑草を食べるようにすすめる運動」が起こされ、野草の食用が論議されている。
 同年三月には市内の公衆浴場も切符制になり、燃料不足から自由に風呂にも入れなくなっている。
 県厚生課の調査によると太平洋戦争で戦死または戦病死された千葉市民は、陸軍二、〇五五人、海軍五八二人、計二、八五三人にのぼっている。