このころからサイパン島を基地とするアメリカ空軍機による本土空襲は避けられないものとなった。本土への初空襲は、昭和十七年四月十八日で、太平洋戦争ぼっ発後、間もなくであった。このとき千葉市も警報が発令されている。十一月に入ると二十四、二十七、三十日、十二月三、六日と連日のように空襲が続いた。
「こんな状態では、いずれ房総半島も空襲をうけるぞ」といった流言飛語がとんでいた。一方では、軍部の本土決戦の呼号によって「本土決戦となれば、房総半島は決戦場になるかも知れない」といったささやきが、わが千葉市内にも広まっていった。
各家庭では、いつでも最少限の荷物と非常食を持って逃げだせる用意が整えられていたし、農家では、リヤカーに持ち出し品を常時積んでおき、避難に備える人さえ少なくなかった。また、防空壕に重要書類などをしまって、家庭内がいつ空襲をうけても大丈夫のような体制をとっていた。中には重要なものは、農村の親せきへ依頼して疎開する始末であった。
しかし、流言飛語や軍部批判は治安維持法や防諜法、軍機保護法などによって厳しく取締まられていたので、公言はできなかった。もし、流言飛語でも吹聴しようものならば、たちまち警察当局はもとより、憲兵ににらまれて、いつ拘引されるかわからなかった。
言論の自由どころではなく、全くつらい陰惨な暗い毎日の生活であった。それでも国民の多くは、「一億火の玉」といい、銃後の守りを固める一方、職場や家庭で連日のように防空訓練によるバケツ消火演習、避難訓練が強制的に行われた。千葉市の亥鼻山腹に横穴式の待避壕がつくられたのもそのころで、竹材を利用した簡易なものであったが、約二百人を収容できる大きなものであった。
そのころ「千葉防空の歌」としてつぎのような歌があり、県民の士気鼓舞のために使われた。
聞けサイレンあの音を
来たぞ敵機だ空襲だ
燈りを消していざ用意
恐るな、慌てるな、落着いて
護れ! 房総千葉の空
(県社会教育課懸賞募集当選防空歌詞)
しかし、こうした防空の護りを固めたにも拘らず、ついに大きな空襲に見舞われることになった。
千葉市が空襲をうける前の昭和二十年三月、首都東京が大空襲をうけて死傷者二万人余、被災家屋二六万余戸という大被害をうけるに至って、千葉市民に与えたショックは大きかった。