千葉市の空襲

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 千葉市の初空襲は昭和二十年五月七日に蘇我地区がうけたのが最初であった。このことについては、『千葉鉄道管理史』の中で小川政雄の日記として、次のように記されている。
  五月七日
 千葉市に小型機来襲の報あり、蘇我駅付近にも被害ありとのこと。浜野より先通信不通にて模様を知ることを得ず。前任地蘇我の官舎の玄関に入るなり、妻が〝もう少しにてやられるところなり〟という。座敷に上れば、一発の機銃弾が頭上すれすれに襖を打ち抜き隣の助役官舎の壁に大なる弾痕を残せり。

 これは彼が転勤直後、前任地の蘇我駅の官舎に戻ったさいの模様を書き綴ったものである。
 二度目の空襲をうけたのは、同じ年の六月十日のことである。この日は、ちょうど日曜日であった。朝六時四十二分に警戒警報が発令され、ラジオ放送では、「敵の編隊は駿河湾より伊豆半島に侵入、北進中」というものであった。
 ついで七時二分すぎには空襲警報のサイレンがツユ空を破って市内に鳴りひびいた。その間、ラジオ放送はアメリカ軍飛行機の侵入を気ぜわしく伝えていた。
 第二報は「敵の一編隊房総内部に侵入北進中」、つづいて第三報は「敵の後続編隊更に房総南部に侵入北進中」と伝えた。
 当日は雲が低くたれこめて、まさにツユ空であった。視界は極めて悪かったので、敵機を肉眼でとらえることはむずかしかった。全市民の緊張のうちに七時四十二分ごろ大音響とともに爆弾が市内に相次いで落とされた。空襲は約五分間にわたって行われ、第一波から第三波までの波状攻撃によって国鉄千葉駅機関庫(現在の国鉄千葉駅のところ)には二五〇キロの大型爆弾が落とされている。
 この空襲によって前記の機関庫のほか師範学校女子部、千葉高等女学校(現在の新宿小学校のところ)や新宿、富士見、新田、登戸、蘇我など、現在の国鉄線路より海岸よりの民家や日東製粉千葉工場などが一斉に打撃をうけ、死傷者三九一名、罹災戸数四一五戸の被害をうけた。戦災面積は二十七万四千平方メートルにも及んだ。
 このときの空襲を『戦争体験の記録』一号に掲載された川波亀美の記録によると、次のようであった。
 爆弾は一〇〇メートル先の女子師範学校に五、六ぱつ、県立千葉高等女学校に五はつ、蘇我の工場に二つと(中略)周辺の病院や民家にも落ちた。女学校や師範学校が学校工場になってから十日目ぐらいのことである。(中略)地獄があるとすれば、このような様をいうのか。あたりは泣き叫ぶ声、うめき声。肺の貫通銃創、腕のない人、腹部に穴があいて腸がはみ出している人。(中略)知っている限りの言葉を並べても、その惨状をいいあらわすことばがない。(以下略)

 機関庫付近では、勤務中に爆死したものや姓名の識別しえないものも多かったという。
 また、この日の模様を元千葉機関区長の鵜沢六治は、『千葉鉄道管理史』上で、
 六月十日は、ちょうど日曜日でした。七時四十二分千葉機関区内に十三発落下いたしまして、即死が二十一名、病院まで行かぬうちに二名が亡くなりました。でも、その当時、勤労動員による学徒が八十人ばかりいましたが、幸い日曜日で出勤していず、出勤は僅かに四名でしたことは不幸中の幸いでした。女子師範の脇で、本千葉駅から降りて線路ぞいに歩いてきた多くの人がやられました。(本千葉駅止りの列車であった。)

と語っている。また、元本千葉駅長で故人となられた浪川嘉吉は、当時の回想として、
 ちょうど駅の構内には勝浦からきた旅客列車が停っていた。朝の通勤列車です。二千人以上の人たちがクモの子をちらすように避難を始めたのです。(中略)ちょうどそのとき、眼の前を一群の子供たちがかけて行きました。男の子が十人くらい、女の子が五、六人いたと思います。子供たちは養老川の在に疎開していた東京の子供たちが先生に引率されて東京に帰る途中だった。子供たちは皆んな靴もはいていなければ、下駄もはいていない。ハダシなのです。ハダシのまま汽車に乗ってきたのです。子供たちは、空襲警報の鳴るサイレンの中でハダシで逃げまどっている姿はまったく哀れでした。

 そのころ、千葉市内に学童をおかないようにせよ、との強い指令が出され、市役所が中心となり六月末から七月にかけて学童疎開を相談している。(政府は昭和十九年=一九四四=八月に学童疎開を決定している。)千葉市には数多くの軍事施設があったし、房総半島へのアメリカ軍の上陸を心配して、東部軍管区では、県内各地の海岸をはじめ、各所に兵員や部隊を配備していたので、米軍の狙いをうけることは当然考えられていた。
 学童疎開の指令をうけても疎開先のある家庭はともかくとして、疎開先のない家庭もあって動揺がつづいた。
 各自それぞれ疎開しようとしても汽車の切符がなかなか入手できなかった。朝早く窓口に行列して切符を手に入れても、運転本数が少ないので、こんどは列車に乗ることが命がけであった。
 すでに長距離列車や不急不用の旅行は禁止となっていたので、強制疎開ならともかく、二十年七月ごろの疎開は苦難が伴った。まして現代のように乗用車があるわけではないし、バスやトラックの多くは軍用に徴用されて、民間用として走っていた車はわずかであった。
 一方、中心街の家屋は、空襲による火災防止の建て前から「まびき疎開」の指示が出され、市内で五四三戸が疎開された。
 ついで第三回の空襲をうけたのは六月の第二回空襲から約一カ月後の七月六日の深夜で、七夕(たなばた)の前夜であった。
 この日の空襲は、まさに大規模で市内中心街をほとんど焼き尽し、死の町と化するほどの惨状を呈した。
 七月六日の深夜、千葉地区に空襲警報が発令された。ラジオ放送とともに市民は、一斉に身固めをして待避の準備をした。防空頭巾(づきん)を身につけるもの、戦闘服になるものなど様々であったといわれる。
 六日深夜、最初の空襲警報は「米軍機は山梨方面に侵入中」ということで、一たん出された警報は間もなく解除された。
 「助かった」
 市民は安堵の色を浮かべてホッと一息ついていた。この安心感は瞬時のヌカ喜びであった。間もなく千葉地区に空襲警報が発令される、とほとんど同時であった、市内のあちら、こちらからゴウ音とともに火柱があがった。
 この日は曇り空で、雨雲が低くたれこめていた。無気味な様相をみせて、不吉な予感が背筋を走ったと、ある被災者は話していた。風は初めのうちは東風の微風であったが、あとで火災が悪魔でも呼び寄せたのか東風の強風に変わったばかりか、豪雨を伴った。
 来襲したB29爆撃機は、まず最初に市周辺部の椿森、作草部、穴川、小仲台などの軍事施設と民家に爆弾と油脂焼夷弾を雨あられのように落とした。
 作草部神社前の黒川某の話によると、同家では頑丈な防空壕を築造していたが、壕に直撃弾が落ちて一瞬にして二人の子供を失う一方、家も家財道具も灰燼に帰してしまったという。そのさい油性の焼夷弾のヤリのようなものが同家の壕に三八本もささったというから、如何に激しい攻撃をうけたかが推測できる。
 爆撃は周辺部の軍事施設がまっ先に狙われたわけであるが、これが結果的には、市民の逃げ場をふさいでしまった形となった。周辺部についで中心街に集中攻撃をかけてきたからである。四方八方からあがった火の手と空からの焼夷弾攻撃にあって、市民は、少ない避難場所を求めて右往左往するばかりで大混乱となった。焼夷弾は油脂性のため、火災による焼死者も含めて多数の人命と財産を奪った。
 あるものは椿森陸橋の線路沿いの田んぼ(現在のヤマギワ電気店周辺)に、あるものは旭町から矢作方面の田んぼに、更に千葉寺、大学病院や丘陵地帯に遮へいされた東金街道へ、また出洲海岸などの浜辺へと、多くの市民は着のみ着のままの状態で難を逃れた。大事な子供を胸にしっかり抱いて防弾のタテとなって一命を失った人もいたほどだという。
 おまけに豪雨であったので、ズブぬれという言語に絶する苦労を味わったのであった。
 火煙は強風にあおられて二~三百メートルにも及び、火は地をはい市内は焼熱地獄の有様であった。泣き叫ぶ声、助けを求めるもの、息を引きとるもの、戦場以上の阿修羅でしたと、ある被災者の一人はもらしていた。
 爆撃とともに、更に逃げまどう市民めがけてグラマン戦闘機による機銃掃射が執ように繰り返されたので、多数の死傷者を出す結果となった。
 井上病院の花岡和夫院長の話によると、東金街道の大学病院の丘陵地帯にギッシリ避難したところへ機銃掃射をうけたので、あそこでの死傷者が一番多かったという。旧東金街道付近は、死体の山が築かれたといってもいいすぎではなかったようである。都川上流にも多くの遺体がみられたというし、本町小学校(国民学校)の校庭にも死体があったそうである。
 『戦争体験の記録』によると、市内のカメラ商の植草昭三郎は、次のように記している。
 (前略)翌日家に行くと、宝憧院というお寺の庭に死体がズラリと並べられてあり、名前を書いた札がつけてあった。寺の井戸端に自転車屋さんらしい一家の子供と母親五人の焼死体があった。墓地へ逃げたが熱くなり、井戸水を子供にかけたが力尽きたのだろう。(中略)やがて軍のトラックがきて焼トタンに乗せて焼死体を次々に運んでいった。
 こうした光景は市内の到るところでみられたといわれる。東金街道付近で多数の被災、犠牲者を出したことは前述のとおりであるが、これらの処置については、渡辺良雄(当時助役)の話によると、遺体は一たん現在の市営墓地に集めて合同葬にした上、教育会館で遺族に手渡された。このとき市内の全僧侶が供養に参加したという。
 空襲は七日午前一時ごろから約三時間という長時間にわたって反復攻撃をうけた。
 市内一帯を包んだ猛火は、八日早朝になって地元消防署、警防団など市民の活躍と東京から応援にきてくれた消防自動車の尽力によって、ようやく消すことができた。しかし、余燼は到るところでくすぶり、県庁近くにあった宗胤寺住職・児玉栄一師の話によると、同寺は一週間もくすぶり続けたというから、市街地は空襲後しばらくは戦場のような状態であった。

5―24図 千葉市罹災時の現況   (『千葉・銚子復興誌』)

 被災地域は、県庁そばを流れる都川以北の中心街をはじめ、現市民会館(もと国鉄千葉駅のあったところ)裏の椿森、作草部、穴川、小仲台などの丘陵地帯を合わせて二、三回の被災面積は約二三〇万平方メートル(約七〇万坪)を廃虚と化してしまった。中心街は見渡す限りの焼野原となった。県庁から南側の長洲、千葉寺、末広方面が災禍から免れたのは、不幸中の幸いであった。
 この二度の大きな空襲によって焼失した市内の主な施設と被害状況は次のとおりである。
 〔施設〕 裁判所、千葉郵便局、千葉鉄道管理部、専売局千葉支局、水道事務所、千葉医大の一部、師範学校女子部、中学校 四、国民学校 五、参松工場、昭和研磨工場、日東精粉千葉工場、国鉄千葉駅、同本千葉駅、京成千葉駅、鉄道連隊、歩兵学校、気球隊、憲兵隊、私立病院の大半、千葉神社、護国神社、千葉銀行本店の新館、

戦災で焼失した裁判所

 焼けなかった施設は県庁、市役所、日赤千葉支部、教育会館、男子師範、千葉中(千葉高)、県立図書館、千葉警察署、三菱銀行千葉支店、千葉銀行など。

戦災で焼け残った建物(千葉相互銀行)

 〔被災〕 『千葉市誌』によると死傷者一、五九五人、被災戸数八、九〇四戸、被災者四万一二一二人(一説には死者八九〇人、負傷者千五百人、被災者三万八〇六二人)となっている。
 建設省編の『戦災復興誌』(昭和三十五年発行)によると死傷者一、五九五人、被災戸数八、八〇四戸、被災者四万一二一二人となっている。
 一方、昭和二十一年六月、千葉市の戦災状況をご視察にご来市された天皇陛下への上奏文によると、死者八九〇人、重軽傷者約千五百人、被災戸数八千九百戸、被災者約三万八千人となっている。
 いずれが正確か今後更に調査研究を必要とするが、被災後一年、天皇陛下への上奏文の数字が一番正しいのではないかという意見が多いように思われる。上奏までに市当局は正確な数字を握むため心血をそそいで調査を行ったからである。ただ上奏文の数字には、端数のないのが気になる。
 千葉市への空襲は米国立公文書館の資料によると、来襲のB29の総機数は一五一機、高性能爆弾の投下総数量とトン数は五七七個、一四四トン、焼夷弾一万三一九九個、八七七トン、破砕性爆弾一五九個、三二トンである(『戦争体験の記録』)。