被災前後の市政

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 戦争の前途にようやく暗い状態が感じられた十九年の二月、千城村の合併を可決し、市の人口は一一万台にのぼった。財政の規模は一八一万五五六〇円で、歳入の内わけは、
 税収        九九万一八六〇円
 分与税(配付税)  一五万四〇〇〇円
 税外収入      三五万六二〇〇円
 市債        三一万三五〇〇円
で、税金の収入が約半分、市債が六分の一を占めた。歳入構成としては、そう悪い状態ではなかった。しかし、戦争による市民へのシワ寄せはどんどん悪化していった。市立商業高校(現県立千葉商業高校の前身)は市立航空工業学校に変わり、商業学校としての生徒募集は中止となるなど子供たちの上にも重大な影響をもたらした。
 一方、市内では前述のように学童の疎開論が持ち上がっていた。これは政府の方針であったので、当時としてはやむを得なかった。疎開はともかくとして、それ以上に困ったことは、この年は干ばつにあって農作物が不作であったことだ。主食の米はもちろんのこと、野菜、魚介類、薪炭などいずれも不足となり、市議会では、再三にわたり、対策を市の首脳にただした。当時、市内の一日の野菜必要量は八千貫といわれたが、たったの三千貫しか入荷しないことが市議会で問題とされた。
 だが、農村地帯は働き手を戦争に送り出してしまったので、人手不足で生産は思うように進まず、都市の欠乏に応えることができないため、生活必需物資の不足は一層ひどくなるばかりであった。市民たちは、年末を迎えて、「薪炭、食糧不足で、この冬をどうやってすごすのか」と悲痛な叫びをあげた。市では永井準一郎市長ら幹部が近隣へ出張して、野菜などの出荷を要請したが、はかばかしくなかった。
 二十年に入っても、当初、千葉市にはまだ実際の空襲はなかったが、市民は、いつ空襲されるかわからないので、防空演習などに懸命であった。子供たちは登校の際は必ず、防空頭巾を持ち、胸に名札をつけて万一に備えた。
 この年の予算は、二月の定例市議会で討議されたが、総額二百八十九万三百円で、前年度に比べ約百万円ほどふえた。主なものを次に掲る。
 歳入
 地租附加税  一四万〇〇〇〇円
 家屋税附加税 二三万〇〇〇〇円
 営業税附加税 三二万一〇〇〇円
 市民税    二三万七〇〇〇円
 使用料手数料 一九万七〇〇〇円
 国庫支出金  五一万九〇〇〇円
 雑収入    一二万三〇〇〇円
 市債     五三万七〇〇〇円
 歳出
 市役所費   二四万七〇〇〇円
 教育費    三二万四〇〇〇円
 衛生費    一八万九〇〇〇円
 警防費     九万二〇〇〇円
 地方振興費   八万七〇〇〇円
 臨時費
 都市計画費  一五万五〇〇〇円
 戦時特別費  三一万一〇〇〇円
 公債費    二五万六〇〇〇円
 教育費    二五万四〇〇〇円
 警防費    六三万三〇〇〇円
 この財政規模をみると、市財政の悪化がわかる。市債と国庫支出金で収入の三分の一を占めている。借金財政のひどさが説明されている。また支出をみると、地方振興費は翼賛会、町内会費であり、警防費が大きなウエイトを占めている。すべて戦争遂行のため、やむなく組まれた予算であった。
 当時の市議会では、しばしば市民生活の苦しさを表徴するような質問が展開されている。例えば、
 「野菜が全然出荷されていない。鮮魚も同様である。対策をどうするのか」
 「青果市場の運営が悪い」
 「主食の不足をどう解決するか」
 「火葬場に燃料がなく火葬も満足にできない状態にある」
など切実なものばかりであった。
 戦災をうけた直後、当然急施市会を招集して協議すべきであるが、六月十二日開会の市会では、これといった対策は検討されていない。わずかに七月の市会参事会で仮設住宅、罹災者への給与金などのことで質疑が展開されているにすぎない。
 この六月の戦災直前、宮内三朗助役が辞任し、後任に渡辺良雄(現千葉青果社長)が就任している。
 いずれにしても、終戦直後、米占領軍の上陸前に戦時中の文言は全部焼却するように指示されたので、大事な書類はほとんど全部といってよいほど焼却されてしまったようである。市役所にこれといった戦災関係の資料はないといってよい。
 前出の渡辺良雄の話によると、戦災直後、市役所には乗用車は一台もなく、トラックが四台あったという。このトラックを使用して焼死者の処置、物資の配給などに当たっている。
 戦災をうけた直後、近隣の市町村からタキ出しをうけて三日間は食事を無料で給食し、更に、つぎの五日間は食糧を無料配給し、戦災対策に当たったそうである。
 同じ渡辺良雄の話によると、戦災復興は第一にバラック住宅を建設することにあるが、木材が全然ない。そこで秋田県の秋田木材株式会社に職員を派遣して折衝の結果、秋田木材では「木材はあるが、搬出する人夫の食糧がなくて困っている。千葉から芋を送ってくれ」という条件の提示をうけた。早速県庁や農林省の食糧事務所に交渉したが、芋は統制品のため承認して貰えなかった。やむを得ず違法行為を承知で八街農協組へ行き鵜沢考専務に交渉したところ、ヤミ相場で二車を引きうけてくれたので、秋田に送ったところ、見返りに木材を送ってくれた。これを市民に無償配給して、初めて焼跡にバラックが建ちはじめたのだという。

戦災後,バラックの建った市内(旧吾妻町)

 これが復興の第一歩であったと語ってくれた。