市民と社会生活

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 昭和十九年七月東条内閣が総辞職し、小磯内閣が誕生したが、戦局は一向に好転しなかった。小磯内閣は国民総武装を決定し、戦争継続の方針であった。しかし、戦局は窮迫をつげるばかりで、二十年になって小磯内閣に代わって鈴木貫太郎内閣が実現した。
 鈴木内閣の下で開かれた二十年六月の第八七議会では、戦時緊急措置法と義勇兵役法案が提案されて可決された。
 戦時緊急措置法は軍事物資の生産、確保などのためのもので、いま一つの義勇兵役法は一四歳から六〇歳までの男子および一七歳から四三歳までの未婚の女子に義勇兵役の義務を課し、国民義勇戦闘隊に編成するものであった。老若男女を問わず国民こぞって戦闘に参加させられることになったわけである。
 これに伴って二十年四月からは、国民学校の初等科(小学校のこと)を除いて学校の授業はすべて原則的に停止され、兵役または勤労動員として軍需工場やその関連産業、もしくは国家の基幹事業、農村へ勤労動員させられた。
 女子も女子挺身隊や報国隊として軍需工場や国鉄、農村などへ同じように勤労に従事することになった。
 千葉市でも蘇我の日立航空機工場をはじめ、加藤製作所や、船橋、あるいは都内の軍需工場まで勤労に通わせられた。学生たちは家庭から直接弁当を持参して工場へ通わせられたのである。千葉市立商業学校(現県立千葉商高)などいくつかの学校は工場に変わる始末であった。もっとも学校自体は授業がなくガランとした空家になっていた。昭和十八年十月には、それまで大学の在学生には徴兵猶余の措置がとられていたが、医学部学生などを除いて徴兵猶余が停止され、一斉に徴兵検査をうけた。学徒出陣が行なわれ、米軍艦への体当たりなどはなばなしい活躍をしたことが当時の新聞に報道されたが、多くの若い生命が失われていった。
 国内のありとあらゆるものは、すべて戦争目的達成に結集された。平和産業への就職は禁止され、就業している人たちは、徴用といって軍事工場へ動員された。ために各所で男子の不足が目だち女性の職場進出となった。
 『千葉鉄道管理局史』によると、列車の車掌から線路工夫まで女性に代わる(写真)始末で、当時千葉鉄道管理部管内で女子職員が約一千名を数えたほどである。

線路工事をする女子たち

 奈良屋百貨店では当時、男子で一番若い人が四四歳で、それもわずか二人、あとはほとんど女子社員であったと『奈良屋二百二十年史』に記されている。二〇代、三〇代の人は一人もいなかったわけで、若い人がいかに戦線または軍需工場へ狩り出されたかがわかる。
 女子学生が鉢巻姿で軍需工場で働いている姿が当時の新聞にしばしば報道されている。化粧もせず、油だらけになって軍需品を製造している光景は、当時としては当然のことではあったが、現代では想像できないことであろう。