終戦――敗戦とともに市民の多くは虚脱状態であった。なすすべを知らなかったといってよい。苦しい戦いではあったが、敗戦のショックは大きかった。何人かの経験者に感想をきいて歩いたが、異口同音につらい痛手を語ってくれた。仕事さえ手につかなかったという。おまけに、市内は到るところ焼野原という状態の中から復興に立ち上がることは並大抵のことではなかった。
『奈良屋二百二十年史』によると、同店は焼失いらい営業を再開したのが同年の十一月一日である。当時は電燈もなく、夜はまっ暗ヤミであったと嘆いている。奈良屋でさえかくの如くでは、ほかの店舗も同じような状態ではなかったかと思う。戦災いらい約四カ月間は、死の町であり、光のない町であった。
現在の銀座通りに電燈がついたのは十二月の終わりであった。ただ、驚くことは、十二月ごろになると乏しいながらも家庭雑貨用品が不思議と出回ってきたことである(『奈良屋二百二十年史』)。
戦後の最大の問題は食糧不足であった。さつま芋や馬鈴薯はいい方で、豆粕まで食べた。多くの家庭は米ツブが数えるほどしかない雑炊であった。そのため都市ではタンスの衣類を持って米や芋の買い出しに出かけたので、たけのこ生活、たまねぎ生活(食糧不足のために農業をしていない都市に住む人々は、自分の持っている衣類を持参して食糧と交換した。食糧ばかりでなく衣類も不足していたので、農村の方はお金より衣類と好んで交換した。自分の持っている衣類が一枚、二枚、三枚と毎月のように食糧に変っていったのでたけのこ生活、たまねぎ生活といった)といわれた。ヤミ(主食をはじめ生活必需品はすべて物価統制令という法律などによって配給または価格が統制されていた。この法律に従って取引きしたのでは妙味がなかったので法律にかくれて裏口取引きを行った。これをヤミといった。したがってヤミ取引きで儲けた人が多数現われたのでヤミ景気が一部に出現した)が繁盛し、ヤミ景気となったが、そのために国鉄千葉駅や蘇我駅などでしばしば取締まりが行われている。また二十一年五月には悪質農家の取締まりが行われ、千葉市で一三人が検挙されている。また同月には都内で食糧よこせメーデーが行われ、六月の『県議会速記録』をみると、千葉市で配給制度があるものの、一〇日も遅配になり苦しい世相を訴えている。千葉銀行でも六月には、食糧事情窮迫のため、食糧対策特別休暇制度を設けているほどである。また、二十一年に行われた第一回の国民体育大会には米を持参して参加する始末であった。それと、物凄いインフレに襲われて貨幣価値が下落し、物価高に苦しめられた。特に米は当時公定で一升二円七三銭であったものがヤミでは三〇倍、酒類は一〇倍、石けんも三〇倍もしていた。このため公務員給与のベースアップも早かった。
昭和二十一年三月に五百円であった国家公務員の給与ベースは七月には六百円、翌二十二年二月には千二百円、六月には千六百円、七月、千八百円と改定されている。
二十一、二年ごろ銀座通りの現信用金庫あたりは、夜になると一ぱい飲み屋が出てカストリ焼酎(しょうちゅう)を売っていたものである。中には酒不足からメチルアルコールを飲んで失明したり、一命を失った人さえいた。更にヤミ酒のドブロク狩りが各所で行われている。
通勤者は列車の不足から無蓋車や牛馬を運ぶ運搬車に乗って通勤したものである。供米督励に出張した川口為之助知事も乗降口から列車に乗れず、窓から乗ったことが同知事を偲ぶ本に出ているほどである。
学校では窓ガラスが一枚もなく、また机、腰かけもなく青空教室のような日が幾日も続いたところもあった。こうした中で昭和二十年十二月一日、地元新聞として千葉新聞が戦後第一号として発行されている。