栄枯盛衰は世のならい、遠く大治の昔、千葉常重が猪鼻山に城を築いてから三百年余――関東屈指の城下町として栄えた往時の千葉も、康正元年兵火によって灰燼と帰して以来、この地に杖ひく人々は、ただ夏草につわものどもの夢を偲ぶ有様でしたが、江戸時代の半ばごろから「港」を中心として、次第に近代都市への姿を整えてまいりました。明治に入ってからは県庁が置かれ、鉄道が敷かれ、海とともに陸上交通の基点となり、さらに大正十年、わが国六十六番目の市制が施行されてからは、行政・経済・文化などあらゆる分野の中心都市として、あるいは軍都として、目を見はるばかりの躍進を続けてきたのであります。

 そして昭和二十年――戦火により再び廃墟の巷と化したこの地は、全市民の意欲によって、さながら不死鳥のごとく今日の隆盛を見たのであります。これはとりもなおさず、この郷土を愛し、住みよい暮しよい街づくりに努力された宮内前市長を中心とした先人の英智と、汗の結晶の賜であります。

 このような祖先の足跡を思い、郷土を正しく理解し、よりよい都市づくりに努めることが、いまある私どもに課せられた責務でもありましょう。

 いまや千葉市は人口六〇万人、県都として、また首都圏の中核都市として枢要な地位を占め、全国でも代表的な都市に成長いたしました。しかしながら急速な社会の変化に伴い、自然環境の保全・快適な生活環境の整備、さらには生活様式の変化・多様化に対応する余暇空間の確保、つまり人間性回復が急務となり、新しいコミュニティづくりが行政の課題となってきたことは、ご承知のとおりであります。

 「住んでいたい街」「住んでよかった街」そして「子孫に残したい街」それが千葉市のめざす「魅力と風格のある都市」のイメージでありますが、私どもの祖先が残したこの恵み豊かな大地を、明るく住みよい日本一の都市とするためには、いまこそ全力を尽くすべきときであろうと思うのであります。

 このような意味あいから、さきに千葉市誌を通して郷土の概観を明らかにしてまいりましたが、本市史においては、歴史にもとづく先人の偉業と、それを基盤とした将来の展望を、五カ年の長い歳月を費して、通史三巻ならびに史料編として集大成したものであります。

 この市史が、多くの方々に活用され、今後の千葉市の礎石となるならば、望外の幸せであります。

 終わりに、市制五十年記念事業の一環としてこの市史の刊行を企画され、ご尽力をいただきましたいまは亡き宮内三朗前市長のご冥福をお祈り申しあげるとともに、日夜をわかたぬご努力をいただきました編纂委員各位、ならびに多くの貴重な資料を提供くださった方々に、深甚なる感謝を申しあげて序といたします。

   昭和四十九年三月

千葉市長 荒木和成