第二次大戦の末期になると、資材不足のために、都市のあらゆる建設事業は中止しなければならなかった。アメリカの空襲が激しくなると防空対策として、市の土木事業は市街の中に防空々地や消防道路をつくることが主となった。また空襲による火災を局地的に食い止めるために、中心市街の家屋に「まびき疎開」が強制的に実施された。その数は五四三戸にも達した。このような都市の破壊も戦争遂行のためにやむをえなかった。そしてついに千葉市の最悪の日がやってきた。昭和二十年(一九四五)六月十日の都市爆撃と七月七日の爆撃、焼夷弾による都市焼払い攻撃によって、千葉市の中心市街は三時間半で炎上した。この戦災によって、千葉市の総人口七万八千人のうち、罹災した人口は三万八千人(一説には四万一千人)、総戸数一万四千七百戸のうち、罹災戸数は八千九百戸に達した。炎上地域は全く廃虚(はいきょ)と化した中心部をはじめ、南は都川の岸まで、北は国鉄千葉駅の裏の丘陵まで、その面積は七〇万坪といわれた。このため千葉市の都市建設は第一歩からはじめなければならなかった。自然発生的な拡大をしてきた千葉市の中心街は、これから計画的な都市建設がはじまった。中心市街の都市形態は全く昔の面影をとどめないものに変化することになる。
終戦直後、政府は全国の戦災都市の復興基本方針を打ちだした。
(一) 都市の性格を確立する。
(二) 都市生活の能率、保健、防災を主目標とする。
(三) 都市の主要幹線道路の幅員は中小都市では三六メートル以上とする。
(四) 都市に防災、美観を留意して、そのために広場、広路(幅員五〇~一〇〇メートル)を設ける。
(五) 都市に公園、緑地を市街地面積の一〇パーセント以上を設置し、これらを市街地に楔状に入れる。
(六) 都市の中心市街の人口密度の制限を強化し、人口密度の低下をはかる。
この戦災都市の復興基本方針と運輸省の市内における国鉄駅の移転計画の決定にもとづいて、千葉県の都市計画課は千葉市の復興都市計画を立案した。この都市像は「明るい健康都市」にあった。県の都市計画課は復興都市計画案を千葉市の市会議員全員協議会にかけて計画内容を説明した。千葉市は市の都市計画委員協議会を開いてこれを検討し、一般市民に公示した。それは国鉄駅の移転、公園・緑地帯の設置、街路の拡幅などにより、市街の私有地は平均三〇パーセントを公共用地用に提供し、屋敷割はこれらの計画線の決定によってやりなおすことになった。復興都市計画の事業は昭和二十一年から始め、昭和二十五年の完成を目標とし、総経費一億五千万円の予算であった。千葉市は復興都市計画の事業を行うために、新たに復興事務局を設置した。