京葉臨海広域都市計画へ発展

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 しかし新五箇年計画を施行している間に、千葉市の発展は急速に大きくなっていった。都市計画の中心問題である駅移転は新五箇年計画の期間の中で実現できなかった。川崎製鉄千葉製鉄所は昭和二十五年から着工して第一期計画が終わり、昭和三十一年から第二期計画にはいった。昭和二十六年に千葉港築港に着手してから四年後に一万トン級貨物船が入港し、昭和三十年の一年間に出入港隻数は三千隻となった。昭和二十九年から町村合併があり、犢橋、幕張を合併し、昭和三十年に生浜、椎名、誉田を合併して、面積は一六〇・六平方キロメートル、人口一九万人に増加した。昭和三十年に東京電力千葉火力発電所が着工された。また昭和三十年に若松町へ自衛隊下志津高射砲学校が新設され、隊員二千人が移駐してきた。

 新五箇年都市計画は施行期間の昭和二十九年度までに完了せずして、昭和三十年代にまで延長された。京成千葉駅は昭和三十年十二月に着工、建坪三百坪、地下一階、地上三階のターミナル・ビル(延千二百坪)の建設がはじまり、同三十三年に移転した。国鉄本千葉駅は昭和三十一年九月に着工、同三十二年四月から営業を開始した。国鉄千葉駅は昭和三十八年に地下一階、地上六階の民衆駅として完成し、駅から京成千葉駅までは高架橋とし、その下の七百メートルをショッピング街とした。このような都市計画の中心問題であった国鉄駅と京成駅の移動が決定しなければ街路計画やその他が施行できなかったからであった。新五箇年計画は昭和二十五年から同二十九年までの期間であったが、実際は昭和三十三年までに完成を目標として行われた。

 戦災復興都市計画は昭和二十一年から同二十四年までの五箇年計画と昭和二十五年から同二十九年(延長して同三十三年まで)の新五箇年計画によって終わったとみてもよい。その後は京葉臨海広域都市計画が新たに施行された。都市計画はもはや戦災復興という意味よりも、千葉市の新発展に対応する都市計画を必要とする情勢になっていたからであった。まず京葉臨海広域都市計画への移行は、昭和三十一年八月に建設省告示第一九〇四号によって千葉市の全市域が都市計画区域に決定されたことからはじまった。都市計画地域は戦災地域だけでなく全市域に及ぶ計画に切り替えられた。市域の用途地域の決定も、土地区画整理事業も、街路計画も、戦災復興都市計画による中心市街の周辺地域が計画の対象地となった。