衣・食・住の状況

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 昭和二十年八月十五日、無条件降伏で太平洋戦争は終わった。この日よりも先の七月六日の夜半から七日の朝にかけて、千葉市の市街はアメリカの空襲によって焼野原となった。市民は終戦とともに精神的に虚脱状態になり、その生活は不安と昏迷(こんめい)の中にあけくれた。しかし暴動も反乱もおこらなかった。市民生活の平穏に比べて房総半島の防備に当たっていた約一四万の軍隊は士気喪失して混乱し、九十九里沿岸部隊から逃亡兵が続出した。九月一日、館山海軍航空隊に連合軍の進駐先遣隊が上陸、十月三日に県庁に軍政部が設置、千葉市に軍政がしかれた。十月四日に特高警察が解体され、十一月下旬に県内における各部隊が復員をした。

 市街地の人口は焼けだされて、戦災を受けなかった蘇我、稲毛、検見川、幕張などの住宅に間借りするものが多かった。しかし市街の焼野原に焼残りのトタンや木材でバラックを建てて生活する人々も増加した。市街地の人口が激減して周辺の人口が二倍以上にふくれあがった。市民は住むべき住宅を手に入れることが困難であった。住宅難は市民を最も苦しめた。昭和二十二年八月から、市が戦災者、引揚者、生活困窮者を共同住宅に収容しはじめた。今井荘(九棟三二三室)、共安荘(一九棟三百室)、市営住宅厚生寮(三棟九二室)、作草部厚生寮(二棟二二室)などに七三七世帯、四千人を収容した。この住宅難に拍車をかけたのは海外からの引揚者、復員者であった。終戦後に海外から出征軍人は復員してきたが、明治・大正期の戦争のときのように市民の出迎えもなかった。昭和二十五年十二月末までに復員した軍人は七、三七一名にのぼった。そのときまで判明した戦没者は、終戦後だけで陸軍一、四七一名、海軍二八五名、計一、七五六名であった。未帰還の軍人は八二名もあった。太平洋戦争には総人口が約一〇万人の千葉市から九、二〇九名が出征し、その二〇パーセントが戦没した。引揚者は海外に移住していた人々であるが、昭和二十五年十二月末まで三、九四九人が引揚げた。引揚者のために海外抑留同胞救出運動千葉市本部が救出運動を行ったが、昭和二十五年以降は朝鮮動乱がおこったので、中共地区からの引揚者の救出はできなくなった。住宅難は東京からの転入者によって更に激しくなった。東京からの転入者は戦時中からの疎開者であった。終戦後には東京の食糧事情が悪いため、食糧事情がよい市川、松戸、船橋、千葉に転入してくる者が増加していたのである。昭和二十一年七月ころになると、住宅難と食糧不足から、県地方課は転入を拒絶し、戦災都市の千葉市は転入抑制を断行した。市街地は戦災で八千九百戸も焼かれたが、罹災者はあらゆる困難をおしきって再建にむかって進んだ。戦災から一年後に本建築を行ったものが一、〇一六戸、仮建築が千三百戸、建築申請が二千戸となっていた。千葉信用組合、県食糧営団、県農業会、県酒販会社などの農業関係の、資金が豊かな団体は本建築を完成していた。商業関係でも奈良屋、扇屋が復興して商店街も軒を並べはじめた。娯楽関係の復興は特にめざましく、戦前をしのぐものがあった。映画館は千葉新興館、新興映画館、第一映画劇場、吾妻館などが中心街に復興した。蓮池には新興喫茶店街が生まれでた。しかし一般の市民は一戸建ての中に二世帯以上も間借りして窮屈な生活をしていた。銭湯も少なくて不潔になりがちであった。燃料の配給も少ないので、電熱器は煮炊きをしたり、コタツに使われた。発電所からの送電量が少ないのに、夕方になると各家庭が一斉に電熱器を使用するので、電燈は暗く、よくヒューズがとんで町内全体がまっ暗になったりした。

銀座通り
本千葉方面
千葉駅前の買出し部隊