あらゆる物資は不足していた。戦時中から統制経済が行われ、主な生活物資は配給制であったが、戦後は生産者が公式ルートに物資をのせず、ヤミへ横流しするので配給物資は不足した。農業者、水産業者や工業経営者はヤミ成金になって札束を積み重ねて貯蔵しているなどと新聞が書きたてた。この物資不足の中にいわゆる民主主義運動が激しくなった。消費者はこの運動と結合して生活擁護同盟をつくり、更に県下の各市の生活擁護同盟が結合して、昭和二十年ころには国民生活擁護協議会にまで拡大された。これが中心勢力になって、隠退蔵物資の摘発が盛んになった。千葉市には軍事施設が多かったので終戦に軍隊がかくした物資が次々と暴(あば)きだされた。陸軍糧秣廠の流山支所と習志野支所が千葉市の某氏邸に終戦時にかくした米貨百万ドルと銀塊六二万トンが進駐軍の手によって発掘されたことは、日本中に有名になった。生活物資はすべて生産者から供出させ、政府の機関によって配給された。供出も配給も戦時中から行われてきたが、敗戦後は供出が不良になってきた。食糧を例にとれば、千葉県のサツマイモの生産量は、昭和二十五年に一億二千三百万貫であったが、この供出量は七千万貫と決定された。しかし正式ルートに乗って供出された量はわずか三千五百万貫であった。米の供出量は五万九千石であったが、強権を発動して強制買い上げをしても、供出量は予定の八〇パーセントぐらいであった。市民は配給だけでは不足するから、ヤミといわれた配給でないルートから出回る物資を買って補った。ヤミの物資は街のヤミ市場に行くとなんでも売っていたが、ヤミ値は配給価格よりはるかに高かった。食糧不足がひどくなると、アメリカに懇請して輸入食糧を放出してもらい、食糧危機をきりぬけることがたびたびあった。食糧生産県である千葉県は供米成績は全国最下位であった。そのため県経済防犯課では千葉・船橋・市川の三警察署の協力で武装警官を動員して、千葉駅でヤミ物資を運ぶ人々が乗っている列車の抜打ち的な取り締まりをくり返した。昭和二十三年二月六日の『読売新聞』は経済警察がはじまって以来の大取り締まりの千葉駅の模様を報じている。
午後五時七分着の総武本線の列車と同七時四四分着の房総東線の列車が取締りの対象となった。列車進入前のホームには五メートル間隔に警官を配置し停車と同時に出口から一人一人下車させ、違反者は係官の指揮により、駅前買上所に誘導し、車内は警官・鉄道巡察員が点検した。違反者は二千二百名、強制買い上げ数量はサツマイモ一万二千貫、米一六俵、木炭八〇俵、アメ千貫、落花生四百貫、鮮魚二五〇貫、乾燥イモ一〇四貫であった。このほか列車内に置去り品は総武本線ではアメ、鮮魚、白米、落花生など二〇六件、房総東線では木炭、鮮魚、白米など七二件であった。買い上げと置去りの物資は時価約五百万円であった。お客の下車した後の列車は通路に米が小山をなし、洗面所からカジキ・マグロの切身が泳ぎだし、便所の中からリュックが出る、イスの下から木炭がでる。違反者の一人に聞けば、この取り締まりの情報は佐倉駅に列車がくるまでに常習の闇屋に伝わって四街道駅で常習闇屋は完全に下車した。つかまった者は明日の食糧と大切にリュックを持っている各家庭の父親、母親などの都会消費者であった。