物価の高騰

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 生活物資を手に入れるには公定価格による配給とヤミ物資の購入とがあった。配給はそれぞれの物資を取り扱う小売統制組合員(公認の小売商)から隣組に配給され、隣組において家族数に応じて各家庭に配給した。この配給機構は、野菜を例にとれば、消費者に買取価格の三分の一の価格で配給し、三分の二は国が補助金をだしていた。昭和二十一年五月から配給価格は三〇パーセント引きあげ、買取価格は五〇パーセント引き下げた。六月から国の補給金が停止された。このころから配給価格とヤミ値があまり差がなくなった。また鮮魚は鮮度が悪く、量目が不足し、公定価格がヤミ値より高いようになった。これは商業道徳の腐敗から発生した。魚を例にとれば、小売統制員が鮮魚を市場から朝に受けとり、町内会から隣組に渡し、各家庭に配給されるのは夕方になった。価格がヤミ値より高くなるのは、小売統制員が市場から鮮魚を受けとり、これを町内会・隣組に配給する途中で、小使い稼ぎとして自由販売をし、その分だけ量目が不足したものをそのまま町内会・隣組に渡した。各家庭はこの不足分まで負担して代金を支払わねばならなかった。市民は、隣組配給をやめて、消費者家庭は購入する小売店を選択して登録し、その小売店から購入する店頭売に配給機構を変えることを希望した。

 終戦直後から物価が高くなり、悪性インフレーションが進んだ。特に昭和二十二~二十三年には配給が順調でなく、ヤミ物資の購入が多くなり、インフレーションでヤミ値は高くなり、市民生活は苦しかった。昭和二十一年七月から全国の三一都市に消費者価格調査(C・P・S)が施行され、千葉市もこの調査をしている。この調査によれば、千葉市の一世帯当たりの平均支出額は著しく年増しにふくれあがってインフレーションの進行が激しかったことがわかる。昭和二十一年八月に一、六八二円、翌年一月に二、二四七円、翌々年一月に六、五五一円となっている。東京都では昭和二十一年八月に一、九四九円、翌年一月に二、九二二円、翌々年一月に七、七五三円であった。一世帯のエンゲル係数は昭和二十一年に六八、二十二年六六、二十三年に六三、二十四年に六二、二十五年に五九であった。千葉市の一世帯平均の一人一日当たりのカロリー摂取量は、昭和二十二年に一、三一四カロリーであり、配給食糧から九三四カロリー、ヤミ物資の食糧から三八〇カロリーであった。支出額からみれば、一世帯当たり平均食糧費は一、六三八円であり、配給食糧費は五一九円、ヤミ物資食糧費は一、一一九円であった。