昭和二十四年になるとようやくインフレーションの進行がゆるやかになった。二十一年八月の物価指数を一〇〇とすれば、翌年一月は三七八と急上昇したが、翌々年の一ヵ年間は一八パーセントの増加にとどまった。また昭和二十五年の一ヵ年間は一〇パーセントの上昇であった。昭和二十四年から経済は復興より安定に政策が切り替えられた。アメリカのドッヂ公使による経済九原則の指令により、産業資金の貸出制限が行われた。そのため一般的に金づまりとなり、生産は減退し、企業整備や人員整理も行われた。経済はインフレーションからデフレーションに変わり、賃金は横ばいとなり、公定価格とヤミ値が接近した。また衣食住の物資や統制品の一部に統制がとかれたりして、国民経済が安定化の方向に進み、市民生活の家計費のふくれあがりかたも小さくなった。
昭和二十四年末には戦災の復興が市民生活の中に現れてきた。世帯数・人口は戦前を越した。昭和二十五年の国勢調査では世帯数二万八二二八、人口一三万三八四四人となり、戦前最高数よりも多くなった。千葉市への人口の転入抑制を解いたので人口増加は活発になった。住宅の復興は著しく進んだ。昭和二十三年末に世帯数は二万四千であったが、仮小屋の居住世帯は一、七三一、間借り同居の世帯は六一三、これから当時建築中の住宅と空屋の数を引くと、二、〇三八戸の住宅不足であった。二十四年末にはバラック・仮小屋に居住する世帯は五六五に減じた。戦災住宅の復興は八、一〇〇戸にのぼり、戦災戸数の八、九〇四戸の大部分は復興に近づいた。食糧事情は、昭和二十三年度が最悪であった。配給の遅配・欠配がしばしば発生したが、昭和二十四年には端境期にも満配にすることができた。更に九月から週間前渡の配給となって、食糧事情は明るくなった。野菜や鮮魚の一八品目と加工水産物の四品目を残して、食品の統制は大幅に解かれた。商店街も復興に近づき、商店は一、七二四店にもなった。市内の各産業も生産の増強と経営の安定化に切り替えた。市民生活はどん底時代がようやく過ぎ去りつつあった。