混迷状態の市政

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 敗戦直後の市政は、財政難と混乱、虚脱などによって混迷状態がつづいた。市政推進の方向をどこに求めるか、手もつかない状態で、戦災者救済の具体策をたてるのに精一杯であった。

 当時、千葉市助役の言によれば、物資、特に生活物資の調達には苦労したと語っていた。米もなければ芋も自由には手にはいらなかった。すべてヤミでなければならない時代であった。市営の薪工場を都(みやこ)町、誉田(ほんだ)などにつくって市民に配給したとのことである。

 市では昭和二十一年一月、機構を平時に切り替えるとともに、復興事業に最大の努力を払うことにした。まず戦時中の兵事課を廃止して復興課を新設する一方、米駐留軍との関連で渉外連絡部を置いた。当時市の機構は、次の二室九課であった。

 市長書記室、収入役室、総務課、学務課、戸籍課、経済課、厚生課、税務課、警防課、復興課、土木課。

 一方、市の吏員は、

市長     1

助役     1

収入役    1

主事     22

技師     7

視学     1

嘱託     3

書記     60

技手     8

事務     43

病院長    1

医員     2

婦長     1

病院事務長  1

自動車運転手 12

看護婦    5

電話交換手  2

使丁長    1

公園清掃夫  1

調剤員    1

使丁     15

病員使丁   3

工手     8

清掃手    11

消毒手    1

屠畜手    1

霊園手    4

炊事手    2

 計    268

計二六八名となっているが(『千葉市誌』)数字を計算すると二一九名しかいない。市役所でいろいろ調査したが、ついに詳細を究明することができなかった。しかし昭和二十三年の市職員数が二九七名となっているので、二六八名が正しいと思う。

 昭和二十一年一月九日付の『千葉新聞』に同社の記者が永井市長と対談し、復興千葉市の問題について語っている。それによると、同市長は「先決問題は工業力の復活である、住宅の建設を二千四百戸計画しているが、申し込みはまだ三百戸である。野菜は足りているが、問題は主食の米である。」と語り、米不足を心配しているが、四月の同新聞をみると、ようやく千葉市の食糧不足が深刻となり、以後一層窮迫している。

 また、昭和二十二年二月二十二日付の同新聞によると「進駐軍も千葉市の復興に協力」という見出しで、千葉軍政部長のスチブンソン中佐は「千葉市の復興はめざましいが、残念ながら建築は仮建築である。それも致し方ない。当面の問題は資材の不足と金融である。進駐軍もこの難局打開に一〇〇パーセント協力している。」と語っている。

 一方、昭和二十一年度の予算編成に当たっては、市は歳入欠陥が顕著なため暫定予算を組むよりほかに方法がなかった。政府も県も市も戦時中の無理な軍事費の計上や産業政策をすべて戦争遂行にしぼったため、産業、経済すべてどん底の疲弊状態に陥り、財源難はひどいものであった。

 市の昭和二十一年度当初予算は総額二三六万二三〇〇円であった。そのうち物資運搬道路改修費九万五千円、国民学校営繕費(改修費)一一万円、災害援護費一〇万円、歳入欠陥補てん費三二万五千円、都市計画費八万円は起債に頼らなければ市財政の収支のつじつまが合わなかった。

 更に六月にはいって国民学校、市立商業高校(県立千葉商)の復旧費として五〇万円を起債に頼らなければならなかった。財政難は戦災による市税の収入減が大きな理由だが、当時を振りかえって渡辺良雄元助役は「戦災復興事業すら思うにまかせないほど苦しかった」と語っている。職員の給与を支払うことにも支障をきたし、県や銀行にも再三再四にわたって協力を依頼したそうである。

 その一端として昭和二十一年一月九日付の『千葉新聞』に「市職員の給与は書記が月九三円、主事の年俸千九百円で、銚子の一二〇円、二千二百円に比べて安い」として問題になっている。しかし市の責任者は「待遇改善をしたくとも財政難でできなかった」と語っている。

 こうした苦境の中にあって昭和二十一年四月永井準一郎市長は、昭和九年十二月市長に就任いらい十一年五ヵ月にわたった市長の職から辞任した。まだ任期を残していたが、戦争協力と戦災の責任を痛感してのことである。