後任市長は内務大臣の命令によって市会の推せん制をとることになり、かつて県庁の圧力でやむを得ず辞任したいきさつのある加納金助が推せんされ、第七代市長となった。
当時の『議事録』をみると三上忠造内務大臣から五月十五日までに市長候補を推せんせよとの指示が臼井市会議長宛にきている。
このとき、すでに追放令が出されていたので、加納市長の資格審査が行われ適確と判断されている。
加納市長は就任後、市の予算の総額を一気に当初予算の三倍弱の六一九万六千円に増額したが、インフレの高進によって市財政は困難の度を加えるばかりであった。インフレの影響と食糧不足はヤミの横行となり、一般市民の生活を苦境に追い込んだため、連日のように市に対策を訴える始未であった。千葉生活擁護人民協議会が結成され、配給を自分たちの手でやることを計画したほどである。
加納市長は周辺町村を行脚して米の供出を懇請して歩くなど市民のため全力を尽くしたが、思うような成果をあげえなかった(『加納金助伝』)。
国家公務員のたび重なるベースアップにあって市職員のベースアップも行わなければならず、戦災復興事業の促進も急務であった。市ではやむを得ず十一月の市会に総額千百九十七万五千余円というぼう張予算を組んだ。わずか半年ばかりの間に倍増予算となった。
この十一月市会で渡辺良雄元助役は追放令の関係で辞任している。